競争原理を超えて
三澤洋史
僕が東響コーラスに来て3年近く経つ。指導の依頼がきたときは、東響コーラスの特徴でもある出演前のオーディション制によって作品の持つ本来の姿が損なわれたりしないかとか、音楽の歓びを忘れてしまわないかとあんなに心配したのに、今の僕ときたらかなり東響コーラスにはまっている。理由は大きく分けて三つある。
第一に、団員達は合唱するクオリティーが高いだけでなく、思った以上にセンシビリティーに富んでいるという事だ。僕はまず彼らに対して、自分はこの作品をこうとらえるぞと自分のイメージを全面に押し出してゆく。するとそれに共感する者、そうでない者が出てきて、練習場に一種のダイナミズムが生まれる。そして、様々な想いは団員達の中で自然に淘汰されていき、うねりはおのずとひとつの流れに集まってくる。彼らは予想をはるかに越えた想いをたずさえて作品と内的に向かい合い、火花を散らし、そこから何かをつかみ取る。その能力には僕も舌を巻く。
第二に、功罪両面あるといわれてるオーディションを僕は有効に使うことを覚えた。たとえば今年3月のバッハの「口短調ミサ曲」の時は、最初に、僕はバッハを演奏するためにはこういう声がほしい、こういう歌い方が望ましいと宣言する。練習の中でもその理想に向かって具体的な方法を指し、その基準で出演オーディションを審査する。それは同時に団員の側からしてみると、自分の実力をはかられているというよりも、この作品で求められている声、音楽を確認する一つの関所となる。それにしても作品によってかなり方向性を変えても、成績優秀者の顔触れはいつも同じだったりして、僕が驚くのは、彼らは実にフレキシブルに様々なスタイルに対応出来るということだ。
こうした優秀な東響コーラスの団員にも当然欠点はあるもそれは東響コーラスの団員の原動力が基本的に頑張りにある事だ。無論これは常に欠点であるものではない。むしろ頑張る事がプラスに働く作品も多い。たとえば「第九」や「千人の交響曲」のように。ただ「ロ短調ミサ曲」などのような作品は、頑張れば頑張るほど作品の本質から遠ざかってゆく。
「口短調ミサ曲」の本番の数日前、僕は団員達に向かってかなりきびしい口調で説教をした。あなたたちのやっている音楽は僕のめざしているものとは違う。これは祈りの音楽なのだ、力で押してゆくものではない……。彼らは僕の言葉を真摯に受け止めてくれ、数日の間に驚くべき変貌を遂げた。本番は見事に「口短調ミサ曲」の持つ祈りの境地を表現する事に成功していた。ただ僕にはわかっていた。彼らはそれをも頑張る事で到達していたのだと。
演奏会に来てくれたたくさんの方々の最大限の賛辞に混じって、高校生のカトリック信者の女の子がポツリと言った、「なんかミサ曲なのに、ミサを受けてる時の安らぎや、祈りの感じがあんましなかった」。
正直言ってこれにはこたえた。もちろんこれは東響コーラスだけの問題ではない。もしかしたら我が国音楽界全体が同じような問題を抱えているのかもしれない。けれど僕があえてこれを東響コーラスの問題として重要視しているのには訳がある。
東響コーラスの演奏の中に、音楽をする歓びや、作品の本質が感じられる以上に、彼らの頑張りが全面に出て来たとしたら、人はそれをオーディションのせいにするであろう。僕が以前したのと同じ誤解をするであろう。でも、それは違うと思う。芸術は夢を売る仕事である。舞台に立ったらアマ、プロを問わず、だれにでも出来ない事を見事にやり遂げなければならない。そこには当然競争だって、厳しさだってつきものである。要はわれわれの究極目的を競争においてはいけないのであって、芸術そのものの美に奉仕するべきなのである。東響コーラスは、オーディションを悪と人々に思わせてはいけない。そのためには、競争の真っ只中において競争原理を超えた精神を獲得しなければならない。決して不可能な事ではない、彼らならば必ず出来ると僕は信じている。
いつか僕は、東響コーラスの人達と共に、本当に成熟した大人の音楽を奏でてみたい。そしてそれは決して遠い日の事ではないと思っている。やさしさを内包した強さ、祈りを内包した意志。なぐさめといやし。瞑想と熱狂。それらを心から表現出来る団体となるまで、僕はこの人達と深くかかわり続けていたい。まわりは十周年を祝っているが、ぼくにとっては何かまだすべてが始まったばかりのような気がする。
(みさわひろふみ・東響コーラス指揮者)