古い手帳を繰りながら
堀俊輔
「もう十年も経ったのか…」引き出しの中の能率手帳87を取り出してみると、9月11日(金)「東響コーラス発足式」と確かに書いてある。その横に、当日指揮者として挨拶したであろう原稿が走り書きしてある。
「本日はようこそ全国に数ある合唱団の中で、当東響コーラスにお集まりくださいまして誠に有り難うございます。」なんだか新装開店のパチンコ屋の口上みたいだ。「日本で初めてのオーケストラ直属の合唱団。今までのアマチュアのレヴェルを一歩越えた合唱団を作って行きます。私は現在のところ合唱のことはよく分かりません。でも、皆さんの音楽的能力を最大限に発揮できるよう、これから研究、努力しますので、ついて来て下さい。」合唱のことが分からない指揮者について来い、とは考えてみればおかしい話だが、挨拶を求められると、常におちゃらけたことを言ってその場をつないでいた自分としては、随分真面目な内容である。
手帳を年頭に繰り戻してみる。「1月1日。今日から東響の一員だ。それも栄えある指揮者団に加えられたのである。東響と秋山さんのアシスタントとしてギリギリまで働こう…」
事実1987年(昭和62)は僕にとって大きな節目であった。学校を出たての自称“指揮者”からメジャーオーケストラの指揮者になれたことはやはり大きかった。事実上、僕の指揮生活のスタートと言っても良いだろう。その僕に課せられた最初の仕事が専属合唱団設立の大プロジェクトだった。東響に入団できたのに棒を振る回数は減った。手帳によると9月11日の発足式までの間、東響を指揮したのはなんと6月に高校の音楽鑑賞教室を一回だけ。あとはすべて設立準備のスケジュールでビッシリと埋め尽くされている。
創立指揮者とは何だろう。人間に置き換えると、生みの親といったところだろうか。後に「ホリさんは合唱団を育てるのが上手いですね。」とよく言われたが、とんでもないことだ。タイプとしては、子供を作ることだけが好きで、育てることはだれかに押しつける身勝手極まりない男である。しかし、東響コーラスに限り、5歳までは育ての親も果たしたことでお許し願いたいと思う。その数、定期演奏会、特別演奏会、「第九」を含めて48ステージ。
音楽の捉らえ方は実に多様である。またそうあっていい。ある演奏会で、東響コーラスに失望したことがあった。終始平板で自分たちの音に出会っていない演奏だったのだ。これが東響コーラス?音楽とは本当に難しいものだ。生みの親でさえ、こと音楽になるとこんなにも厳しい気持ちを抱いてしまうものだ、と思いつつロビーに出ると、若いカップルが「今日は感動的な演奏会だったね。さすが東響コーラスだね。こんな長い曲をよく暗譜でねえ。」と喋っていた。それを聞いて今度はこう思った。音楽って意外に簡単なものだなあ、こんなレヴェルでも人は感動してしまうものなんだ、と。
僕の聴き方が正しいのか、そのカップルが正しいのか、それは分からない。だが僕もカップルも、演奏に対して何かを求めて来ていることは共通している。完壁な演奏でなくとも良い。一小節でもいいから東響コーラスでないと表現できない音楽に触れることができたなら幸福なのだ。
さて、古い手帳はしまって、今日の演奏に耳を傾けよう。コーラスの諸君、歌い出す前に、客席を隅々まで眺めて欲しい。客の一人一人の顔が「期待」という字に見えるはずである。僕も東響コーラスを全部見る。この一人一人が僕と同じ音楽的遺伝子を持っているんだと思うだけで嬉しくなってくる。
(ほりしゅんすけ・指揮者)