せようとするなら、自分の奥底のもの、自分の本質、耐えられないくらいプライベートなものを見せるという意味になるでしょう。私は、彼女は成功したと思います。撮影のプロセスで、私は彼女の恋愛を徹底的に描いたよ、人間としての劉若英の。観客は、劉若英の実生活かどうか分からないとしても、劉若英について知るだろう。さきほどもお話ししたとおり、それは真実であり、また真実でないものもあるが、真実なのです。われわれも、観客も、彼女が本物の医者ではないことを知っている。しかし、いくつかの場面はとてもリアルなので、これが本当に劉若英のことかもしれないと思うだろう。あなたに見せた場面のようにです。変装して彼自身を演じている鈕承澤です。つけ髭をつけ、ばかげた帽子をかぶっている。劉若英は、面談の時、彼になぜそのようなばかみたいな髭を付けているのかと聞きました。皮膚に糊が見えるるからです。彼はショックを受け、驚いていました。これは、たいへん複雑ですが、単純でもあります。映画はドラマです。映画作りのプロセスや“架空と実生活”の問題などとは無縁の、純粋なドラマなのです。私にとっては、すべてが統一されて表現されています。私の過去の作品と同じです。ただ、今回だけは、とても単純です。『宝島 トレジャー・アイランド』『我的美麗與哀愁』は、一般観客の観るものではありませんでした。私自身とごく限られた特定の観客のためだけに作ったものです。“架空の生活と実生活”の問題がたいへん重要でした。しかし、今回は単純化されています。すべての複雑さは明白だからです。
上映開始15分後には観客はストーリーを欲しがるだろう
―――過去の作品に比べて成熟したものになりそうですね。
陳:そうかもしれません。同時に、これは奇妙な映画でもあります。なぜなら、ストーリーがないからです。上映開始15分後には観客はストーリーを欲しがるだろう、ということが、撮影の最初から頭にありました。15分の間に、観客を掴むさまざまな面白いものを詰め込むことができます。15分経って、観客は何を見せられているのか不思議な気持ちになるでしょう。私はいかにもプロットが紡ぎ上げられていきそうな細かいディテールを入れました。一種の罠です。しかし種明かしをすれば、まったくプロットはないのです。
―――劉若英の面会の場面とソロでいる場面の比率は?
陳:ほとんどのフィルムは面会、つまりインタビューの場面です。このアングルと逆からのアングル、クローズ・アップとミディアムショットだけです。アクションはありません。ただ、劉若英にだけは、さまざまな違うディテールを描きました。しかし映画の80%はインタビューが占めています。劉若英のソロ・シーンは、言わば“ブリッジ”だった。この面会と次の面会の橋わたしをする役割だったのです。でも次第に彼女のソロ・シーン自体の面白さを発見し、それを追及し始めました。私は、彼女に留守電に録音するようにたくさんの台詞を書きました。最初はこのプランはありませんでした。撮影の最後に撮りました。この台詞は、告白の日記のようにまず劉若英が書いて、私が変更したり新たに付け加えたりして二人で書いていきました。彼女が書いたものは、あまりにも現実に近かったからです。あまりにも彼女自身のために書かれたものだったからです。彼女にとってはたいへん大切なものでしょうが、私にとってはドラマでなかったので、ほんの少し手を加えました。映画のバックボーンとして、いくつかの話を採りました。
―――80%がインタビューの部分だとすると、監督としての自由な裁量の余地があまりなく、つらかったのではないですか。カメラポジションや、演出など。
陳:私はたいへん心地良かったです。撮影中の唯一の後悔は、予算の都合上フィルムが充分なかったことです。ドキュメンタリーのように撮る場合、カメラは回り続けなければなりません。いつ面白いシーンが撮れるか分からないからです。35ミリのフィルムは高く、プロデューサーはいつも「監督さん、あなたはもう今日までで○フィート使いましたよ」と注意していました。いつもいつも指摘されていましたので、これが大きなプレッシャーでした。
―――面談中の場面に関したは、ビデオで撮ろうという考えはなかったのですか。
陳:ありました。でもそれは私にとって妥協だったんです。私がこの映画を撮った理由のひとつは、実人物の顔を“超越する”ことでした。内容を考えると、ビデオでもかまわないのですが、その人物を超えるためには充分ではないのです。ビデオはわれわれにとっては、テレビ画面です。テレビ画面はわれわれが見上げるものではないのです。見下ろすものです。
これは、町中のどんな女の子にもできるものではない
―――劉若英の起用に関する初期の躊躇も、彼女が言わば自身を超越できるかの問題と関わっていたと解釈できますね。
陳:準備の始まる前、彼女はふさわしくないと判断したのは、私が、現に結婚したがっているがふさわしい夫を見つけるのに苦労している女性が必要だったからでした。しかし準備に入ったら、現実生活でぴったりの人というだけでは充分でないことが分かってきました。私の映画では、演技することも必要なのです。男の場合、そのままでいてくれれば、演技をする必要はなかったのですが、女性はこの映画の中心ですからドラマをひっぱっていく力が必要なのです。われわれが賞賛に値する何かを見せてくれなくてはならないのです。嫉妬したり共感したり同情したりできる女性でなければならないのです。これは、町中のどんな女の子にもできるものではないのです。ですから、困難だったのは、細部の演技ではなく、彼女がいつもスクリーンの中で劉若英だった場合です。それでは私にとっては不満なのです。