李行小論
民衆の映画〜健康写実の底流〜
佐藤 忠男 (映画評論家)
李行(リー・シン)は1931年、中国本土の江蘇省の生まれである。1949年の中華人民共和国の成立のときは18歳ぐらい。だいたい高校生ぐらいの年令まで本土にいて、その後台湾に来た。いわゆる外省人である。台湾で国立師範大学の教育系を卒業したが、学生時代から演劇活動に打ち込み、映画監督を志していたという。記者、教員などの経験もあるが、1950年代に盛んになった台湾語映画にかかわり、1958年に『王哥柳哥遊台湾』という作品で監督となった。これは上篇下篇の2部作であるが、最初作ったとき、1本には長過ぎ、2本には短か過ぎるものだったので、適当に撮り足して2部作にしたのだという。それだけまだ作り方も素人で万事試行錯誤だった。もともと映画産業の存在しなかった台湾での映画製作は、初期には技術約にはあまりにも素朴で、映画文法のABCもわきまえないような作品がアジア映画祭に出品されて外国人に失笑されたこともあったそうである。李行の初期の作品には『猪八戒と孫悟空』(59)などというのもあるから、通俗大衆路線だったのだと思われる。だいたい台湾語映画はメロドラマあり時代劇ありアクションものありのB級即席映画だったのである。しかしそういう作品でも李行が大いに腕を磨いていたであろうことは、1963年の彼の最初の北京語作品『我らの隣人』を見れば分かる。これは素晴らしい作品だからである。
『我らの隣人』が描いているのは大都市のスラムである。本省人、外省人、そして出身の違うさまざまな人々の群像劇であり、全体のトーンは庶民的な人情喜劇で、貧しい人々が差別と偏見にめげずにがんばる姿を、ユーモアと感傷をまじえながら巧みに面白く描いている。つまり後年の黒澤明の『どですかでん』などと共通する世界を扱っている。ただし黒澤作品が現実にはもう殆どスラムなど見当たらぬ時代にそれをファンタスティックに誇張して一種の抽象的な画白さを作り出しているのに対して、李行のこの作品は現にこうしたスラムが存在したであろう時代を描いてリアリティの強味を持っている。泣き笑いの人情劇仕立てで、本格的なリアリズムとは違うけれども、そこにはまぎれもなく、厳しい時代の苦難に耐えている人々の息づかいがあり、助け合い、励まし合いに実感がこもっているのだ。風俗描写をていねいに念入りにやる李行の手法が大いに成果をあげているのだと思う。
当時、健康写実という路線を模索していた国民党立の撮影所である中央電影がこれに注目した。国民党立ということは事実上国立ということと同じであり、国策的な映画を北京語で作ることを使命としている会社である。国民党は1950年代には大陸反攻ということを声を大にして言っていたが、1960年代ともなるとそれは現実味を失い、もっと説得性のあるスロ一ガンを打ち出さなければならなくなっていた。そこで出てきたのが貧しさを克服して経済建設にいそしもうということであり、希望を持って現実の経済条件をよくしてゆこう、明るく楽しく働こう、という呼びかけだったと思われる。『我らの隣人』の監督こそこの路線にふさわしいと中央電影では見た。そして李行は、先輩の李嘉と共同監督で『海辺の女たち』(64)を作り、次には単独で『あひるを飼う家』(65)を監督する。どちらもストーリー的にはかなり御都合主義的なものであるが、庶民的な愛すべき人聞像を猫き出すことと、とくに労働場面の明るく、楽しく、生き生きとしたタッチにおいて傑出しており、この2本はしばらく続いたこの路線の代表作となった。『海辺の女たち』における収穫を積んで満艦飾に飾ったリアカーの浜辺の大行進とか、『あひるを飼う家』での画面いっぱいに群がるあひるのにぎにぎしさなどは映画としての楽しさを文字どおり満喫させてくれるものである。
しかし健康写実路線には批判も少なくなかった。もし写実がリアリズムを意味するなら、真のリアリズムはきれいごとだけでなく否定面も描くべきであり、そうすると健康というわけにはゆかなくなる。逆に健康にこだわれば写実は犠牲になるだろう、というわけだ。李行はここで主として健康にこだわる。『路』(67)は父と息子の愛情の物語であり、『生きてる限りぼくは負けない』(78)は足の不自由な身体障害者があくまでも頑張って立派に生きぬく実話である。そして『原郷人』(80)は同姓の結婚は許されないという客家の掟を破って結婚した夫婦の愛憎の物語であり、真実の文学の道をめざして一筋に努力する人物を讃えた映画である。単純明快に李行の作品は良風美俗を擁護する保守的道徳主義的なものである。『原郷人』で客家特有の同姓の結婚を認めない超保守的な習慣には反対しているが、同じ客家的保守道徳である妻が夫につくしぬく姿は麗しいものとして描いている。健康写実の健康は、李行作品においては殆んど道徳的あるいは理想主義的ということと同義であり、お説教が先に立ってリアリズムに欠けるのではないかと批判されたとしても不思議はない。しかし国際的に孤立を余儀なくされ、人々の連帯と努力による経済的成功以外に進むべき道のなかった当時の台湾においてはこの路線は民心の指針として必要欠くべからざるものではなかっ