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我らの隣人

1963年 92分 モノクロ スタンダード 自立電影公司

 

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李行

リー・シン

監督

 

1930年上海生まれ。48年、家族で台湾に移住。学生時代の演劇活動をへて、56年、映画界入りし、58年に台湾語映画『王哥柳哥遊台湾』で監督デビュー。63年初めて撮った北京語映画『我らの隣人』で注目され、中央電影公司へ招かれ、李嘉監督と共同で台湾初のカラー、シネマスコープ作品『海辺の女たち』(64)を手がけ、健康写実路線を打ち出した。65年『あひるを飼う家』では金馬奬をほぼ独占する絶賛をうけた。同年には瓊瑤の人気小説の映画化『婉君表妹』『唖女情深』の二部作を発表。黄金期の台湾映画を代表する巨匠として活躍、金馬奬で監督賞3回、作品賞7回も受賞した。監督作品は51本にのぼり、『路』(67)『秋決』(71)『生きてる限り、僕は負けない』(78)、『小城故事』(79)『早安台北』(79)『原郷人』(80)、『大輪廻』(83)などがある。また、73年『心有千千結』でスクリプターとして参加した侯孝賢を筆頭に、李行のもとで経験を積んだ映画人は多く、台湾映画の父として果たした役割は大きい。近年は映画監督協会の会長やプロデューサーとしても活躍し、謝晋監督の『阿片戦争』の製作に参加するなどその活動は台湾のみにとどまらない。

 

解説

 

1958年に台湾語による喜劇映画『王哥柳哥遊台湾』で監督デビューした李行(リー・シン)の北京語映画第一作。公開当時は高い評価を受けたといわれる。朝鮮戦争のころを時代背景に台北と思われる都会の片隅で肩を寄せ合って暮らす貧しい人々の生活を描いているが、登場人物の一部を除くと、その多くは大陸からきた人々であり、劇中にも大陸に残った縁者や帰郷の話が出てくる。当時は朝鮮戦争のあおりを受けて大陸難民が数多く台湾に移住してきたといわれ、1949年の国民党の台湾撤退に続く外省人の移住の波があった。上海生まれの外省人である李行監督もそんな彼らの思いによく通じていたはずである。当時の台湾映画にはそうした大陸移民のために製作されたものが多く見られた。『我らの隣人』も、劇中で「おじさん」「おばさん」などの愛称で呼び合うように、大陸難民をひとつの家族としてとらえ、未来に希望を持たせており、いわば教訓映画と見ることもできる。主演の李冠章は人気コメディアンで李行のデビュー作にも出演している。

 

物語

 

都会の片隅に、貧しい人々が暮らす集落がある。お人好しで太った石三泰(シー・サンタイ)はゴミ拾いで生計を立て、一緒に暮らす陳阿發は輪タクの運転手。息子夫婦を大陸に残した徐婆さんは孫の中学生と暮らし、また夫を炭鉱事故で亡くした病弱の林未亡人は幼い小学生の娘・小珠(シャオチュー)と貧しい生活に耐えている。さらに朱麗麗は夜の巷で働いてヒモのような夫・呉根財を食べさせている。その多くは大陸からの移民だった。ある夜、林未亡人が亡くなり、石三泰は孤児になった小珠を世話し、小珠も石三泰になつくようになる。だが、小珠がクラスメートたちから自分のためにバカにされたことを知った石三泰は、職を変えて地方の炭鉱で働くが、事故で大怪我をする。そんな彼を隣人たちが心配し、手術費用を徐婆さんが出す。退院した石三泰はまたゴミ拾いに戻り、そんな彼を小珠は手助けする。朱麗麗は陳阿發と新しい生活を始め、人々は貧しいながらも希望を持って明日に向かって生きていく。

(村山)

 

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