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尖閣諸島を巡る紛争と解決の見通し

 

尖閣諸島を巡る日中間の紛争は、領有権及び関係水域の管轄権という二つの側面において北東アジア海域で最も議論の余地のある問題の一つである。5つの島及び3つの岩からなる総面積7平方キロの尖閣諸島は、台湾から約120海里、中国沿岸から200海里、沖縄から200海里に位置する。その周辺水域は漁業資源に恵まれ、石油や天然ガス埋蔵の可能性もある。尖閣問題が顕在化したのは、1969年にECAFE(国連アジア極東経済委員会)が豊富な天然資源について報告して以後のことである。1972年の日中国交回復に際して尖閣問題は棚上げされたが、両国間でその解釈が異なる。中国側は、将来の交渉のための良好な二国間関係の維持と考え(訳者注:78年訪日時にトウ小平副総理(当時)の示した「棚上げ、次世代に任せる」との立場を指すと思われる)、日本側の一部は、日本の実効支配を確立したと考えている。二国間及び東アジアの安定と平和のため、ここでは紛争解決のための選択肢について考慮してみる。

 

1.歴史的事実

釣魚島(尖閣の中国名)は16世紀半ばから中国領だった。右は中国の記録のみならず琉球の記録及び当時の地図から確認できる。琉球王国は1609年に島津に征服されるまで代々中国の王朝によって戴冠されてきた。琉球は1872年に沖縄県として正式に日本に併合されたが、その領域は当然琉球王国の領土と同一のものであり、尖閣諸島は含まれていなかった。日本の琉球併合に対し清王朝より異議が申し立てられた結果、沖縄を日清間で二分割することとなったが、右は清国王により批准されないまま日清戦争が勃発した。尖閣諸島の領有に関し、日本側が画策を始めたのは1884年頃からであり、1895年の閣議決定を以て正式に沖縄県に編入された。右決定は明らかに日清戦争における日本の勝利と関係がある。同年下関条約が締結され、台湾及び付属の島が日本に割譲されたが、中国側の立場は尖閣諸島は当時台湾の一部であったというものである(訳者注:日本の立場は、1885年以来の調査の結果、尖閣諸島が無人島であり、且つ清国を含むいかなる外国の支配も及んでないことを確認した上で(国際法上の先占の用件を満たしたものとして)1895年に沖縄県に編入したもので、下関条約とは無関係というもの)。

1945年に第二次世界大戦が終結した際、日本はカイロ宣言に則って満州、台湾等の領土を中国に返還することを受諾した。台湾の中国返還は1951年のサンフランシスコ平和条約で正式に規定されたが、同会議に中華人民共和国は招待されなかった。

 

 

 

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