のOPEC設立とそれに続く石油価格の高騰に伴い、海底の石油や他の鉱物資源の奪い合いは、国家のパワーと威信の源泉となったのである。さらに、中国の工業化に伴い、石油需要が急速な工業化のために高まることが予想される。このように、南シナ海の潜在的な膨大な石油埋蔵量は、南沙諸島に対する中国の関心を喚起したのである。(1)さらに、同地域は一部の島々では1メートルにもなるグアノも豊富に埋蔵している。そのため、中国はこれに懸念を表明せざるを得ず、したがって南沙諸島を自国の敵対国、特に自国の主要な挑戦者であるベトナム、そしてフィリピンによって管理されることはどうしても許し難いことなのである。
第三に、1970年代初頭以来この地域の米国のプレゼンスの衰退によって引き起こされた東南アジアの変化、および米国の対インドシナ政策の失敗、さらにベトナム、ラオス、カンボジアの共産主義指導者の勝利、1975年以来のロシア人のCam Ranh湾利用、1978年のベトナムのロシアへの傾倒などのインドシナの変化により、中国は越ソ軍事同盟(1978年)に対抗して南シナ海における自国の戦略的利害に関する大きな懸念を表明せざるを得なかったのである。
高まる高圧的態度
1980年代以来、中国は領有権を主張する他の諸国家からの挑戦に対応するため、南シナ海における自国の存在をさらに強化し始めた。これに拍車がかかったのは、1986年3月、ユネスコ・オセアニア委員会が中国に南沙諸島に2つの監視塔設置を要請した時であった。これにより、中国は南シナ海におけるプレゼンスを拡大する機会と管轄権を獲得したのである。それ以来、PLANを南シナ海に慣らすための中国の科学的・航海遠征が南沙諸島へ向けて開始されたのである。南沙諸島およびその周辺での一連の海軍演習も行なわれた。1987年の7月までに、中国は海南省の「戦略的境界」の一部として南沙諸島を統合したことを宣言した。これは事実上、同地域が南シナ海艦隊の司令センターとして生まれ変わったことを意味した。
南シナ海の重要性は、1985年12月の胡耀邦書記長の西沙諸島訪問で明らかになった。中国は西沙諸島のYonsin島に26000平方フィートの滑走路を建設し、軍隊駐留を決定した。(2)