中国海軍の過去・現在・未来
本格的海軍(Blue Water Navy)への発展とその問題点
平間洋一(防衛大学教授)
は じ め に
中国に海洋国家としてのイメージを持つ人は少ない。確かに中国の歴代王朝の興亡を決したのは陸戦であり、海戦の主戦場も河川であって海洋ではなかった。しかし、「南船北馬」という言葉が示すとおり、南方の漢民族には海洋的性格もあり、4世紀ころには「指南針」と呼ばれる羅針儀を実用化し、アラビヤ人が東洋に現れる以前の7世紀末までに南シナ海、セレベス海、バンダ海からアンダマン海方面まで進出し、各地に中国人町を形成していた。そして、明代に入った1405年には鄭和(Zheng He)の率いる艦隊がジャワ、パレンバン、マラッカ、セイロンからインドのカリカットに達したが、鄭和はその後も遠征を続け,1433年までに7回にわたり、セイロン、ベトナム、ビルマ、マレー、ジャワ、さらにインド洋を渡ってアフリカ西岸やペルシャ湾への大遠征航海を行い30数国から朝貢させた(1)。これはヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco de Gama)によって、いわゆる大航海時代が開幕される半世紀も前のことであり、コロンブス(Chirstipher Columbus)がアメリカ大陸を発見した一世紀も前のことであった。このように、中国は一般的には大陸国家と考えられがちであるが、中国人はかって広く海外に飛躍し、強大な水軍を保有したこともあった。本稿では、この大陸国家の中国海軍がBlue Water Navyに発展し、アメリカ海軍のように空母機動部隊を整備し、海洋に対する覇権の確立を目指すのか否かを、中国の歴史や国民性を軸に検証してみたい。
第1部「中国海軍の歴史(2)-その軌跡と思想
1近代海軍の建設
明代には強力な水軍を持ち、インド洋からアラビア海にまで進出していた中国ではあったが、近世に入ると国内が乱れて国運が衰え、ヨーロッパの勢力が東洋に到達したときには、老大国の「眠れる獅子」に変わっていた。1838年に道光帝からアヘン問題処理のため、広東に派遣された湖江総督の林規徐は、アヘン問題から対英戦争を予想し対英軍備の必要性を痛感した。そして、大船100隻、中小船50隻、水兵5000人、舵工水手1000人からなる水軍の整備と、沿岸防備の強化を上申した。しかし、道光帝から顧みられることはなかった。とはいえ、1840年のアヘン戦争に敗北すると、一部、