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であり、基本的には未開地をきりひらいて田畑を作り、移民を呼び込むことに主眼が置かれていたのに対し、戦後のキーワードは「開発」であろう。昭和20年に終戦を迎え、国民経済を復興し、食料の増産と人口の収容を図るため、広大な土地と豊富な資源を有する北海道の「開発」は、農業以外の分野にも視野を広げた重要な国家的課題となった。

このような北海道開発の進展やそれに続く産業経済構造変化の影響を受け、札幌では道内農村部からの人口流入や炭坑離職者の流入が続き、さらに、周辺町村との合併により、人口が急激に増加し、市域も拡大していった。(図1参照)

環境の問題についてみると、全国的には、産業型の公害による健康被害が次々と明らかになり、深刻な問題となったが、急激な人口増加と都市化が進行するなかで、札幌において特に深刻となったのは、ばいじんによる大気汚染問題である。この問題は冬季間の暖房用燃料として石炭を使用していたため生じた寒冷地特有のものである。(図2参照)当時は、ビルや一般家庭からの排煙で街全体がしばしばスモッグにおおわれ、電車や自動車は日中でもライトをつけて徐行しなければならなかったという。また、市内を流れる河川は、生活排水や工場排水の流入により汚濁が進行しはじめ、さらに、河川へのごみの不法投棄も後をたたず、川岸はごみの山になるほどであった。

(3) 昭和40〜50年代

この時代の北海道を巡るキーワードは、「社会開発」の推進であろう。従前の「開発」が都市基盤の整備や産業の振興に主眼を置いていたのに対し、高度経済成長と人口、産業の大都市集中の中で、生活環境水準の向上のために社会生活基盤の整備が重視されるようになってきたのである。

また、高度経済成長のもとに国内のエネルギー事情は大きく変化し、札幌においても石炭から石油へと燃料転換が図られた。この結果、大気汚染物質の主役も、ばいじんから硫黄酸化物へと変わっていった。硫黄酸化物は、40年代前半には著しく高い濃度を示していたが、本格的なプラントとしては日本で最初の事業である都心部の地域暖房事業の開始や、低硫黄重油の使用を義務付ける燃料規制の実施などにより、比較的短期間に改善されていった。

一方、水質汚濁の方も、豊平川をはじめとする都市内河川の水質は著しい汚濁状況にあったが、工場・事業場排水に対する監視・指導の強化、生活排水対策としての積極的な下水道整備により、大幅に改善されていった。特に、

 

 

 

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