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湯布院の町づくり

佐藤 裕美

 

人口わずか1万2千人の小さな町に、年間380万人もの観光客が訪れる湯布院町は、豊かな自然と豊富な温泉に恵まれた美しい町である。通称豊後富士とも呼ばれる由布岳(1.584m)が町のシンボルとして雄大にそびえ、季節ごとにその姿を変える様相は、住民はもとより、観光客の心をも和ませてくれる。また、由布院盆地は朝霧の名所としても知られ、晩秋の盆地をすっぽりとつつみこむ真っ白な霧はとても幻想的であり、盆地を一望できる狭霧台から眺めるその朝霧の風景は、まさに白く大きな湖を思わせる幽玄の世界である。

 

〈これまでの町づくり〉

湯布院の「町おこし」は、およそ30年程前、現在、私の両親の世代の人達の手によって始められた。彼等の発想は、高度成長期の大型開発と逆行するように、自然環境を守り、大型ホテルではなく小さな宿づくり、商店づくりをすすめ、また、文化のある町として、さまざまなイベントを展開した。昭和50年に星空の下のコンサートから始まった「ゆふいん音楽祭」、その翌年に始まった、映画ファン手作りの「湯布院映画祭」は、すでに20年以上もつづくイベントとなっている。また、毎年10月10日に行われる「牛喰い絶叫大会」は、昭和47年に始まった「牛一頭牧場運動」が契機となって始まった催しで、ユニークな絶叫に約700人の参加者が大きな笑いにつつまれる。その他、「食べ物文化フェアー」、「アートフェステイバル」、「子供映画祭」など、町民が主体となったイベントが次々と催されるようになり、住民の活力とともに、年々湯布院を訪れる観光客の数も予想以上に増えつづけた。そして、彼等のアイデアとたゆまぬ努力によって、湯布院の町は観光地としてその名を馳せたのである。

しかし、湯布院の町づくりはイベント中心の町づくりだけではなかった。昭和27年頃にもちあがった由布院盆地ダム計画反対運動、また昭和45年の湿原植物の宝庫といわれる猪の瀬戸のゴルフ場建設反対運動等、住民の自主的な反対運動により、湯布院の自然を守る町づくりがすすめられてきたのである。

そしてまた、バブル景気によって湯布院の町づくりの根幹をゆるがす大きな波がやってきた。昭和63年頃から、大型資本が湯布院の町に流れこみ、リゾートマンションブームと開発ブームの到来により、乱開発が始まった。それと同時に町内の田畑には高値がつけられ、次々と田畑を売り渡す農家が相次ぎ、湯布院の田園風景が四角い建物が所狭しと建ち並ぶ風景へと変わっていったのである。住民はこぞって反対運動に奮闘したが、昭和20年代や40年代の

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