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播磨造船松の浦工場,東京造船所(石川島造船所主体),および川南深堀造船所等の量産工場が造られ,ブロック建造や流れ作業等の画期的な工法が試みられていますが,溶接については第四艦隊事件以来海軍の特に用兵側に根強い溶接不信があり,あまり大幅には使われませんでした。なお,この時期の世界の造船量はピークで1,388万トンで,そのうちアメリカは1,157トンを建造していて,しかもかなりの部分が全溶接船に近かったことが終戦後に判っています。

 

4.2 戦後混乱期および復興期

 

1945年,即ち昭和20年に終戦になると,造船業は連合軍総司令部の管轄下に置かれ,残存の造船能力80万トン/年を15万トン/年に減少するという厳しい方針が出され,また工員も復員しないこともあって,各造船会社は船の修繕や慣れない農機具や鍋釜まで作って露命をつなぐ有り様でした。しかしその後の米ソの対立によって占領軍の政策が変わったのと,国内の食糧事情の打開のため順次規制が緩和されて,昭和21年4月には124隻の戦時標準船の建造続行が,また同年11月には28隻の漁船及び小型客船の建造が許可され,さらに計画造船が許可されて,造船業もようやく立ち直りの兆しを見せてきました。日本は戦争により商船の80%を失い海運は壊滅状態にありましたので,その再建のため,日本政府は海運,造船の補助政策をとることとなり,昭和23年から実施された第1次から第23次に至る計画造船は,復興資金,アメリカの対日見返り資金,開銀融資等の資金手当を背景に造船及び海運業の復興に大きな力となりました(図16実線参照)。

昭和24年に1ドル360円の固定為替レートが設定されたのを機に我が国の造船業始まって以来の輸出船受注が始まり,25年の朝鮮動乱,31年のスエズ動乱をきっかけとして輸出船が急増し,以後の造船ブームへと移って行きます。図15からもこの辺の事情がうかがえます。なお,最初の輸出船はノルウェー向けの捕鯨船でした。

 

4.3 全 盛 期

 

昭和期の造船量の推移を示すと図15のようになります。昭和25年に勃発した朝鮮動乱を機に立ち直った我が国の造船業は31年の第一次スエズ動乱によるタンカーの需要の急増による第一次造船ブーム,その後の不況を経て昭和38年をピークとする第二次造船ブームと山谷を繰り返しながらも急成長を遂げて昭和31年にはそれまで世界に君臨してきた英国を抜いて,造船量世界一となり,さらに昭和49年,50年には遂に年間建造量が世界の50%を超えています。この間の輸出船と国内船の比率は図16のようになります。昭和30年代は日本経済が立ち直った時期ではありますが,まだ外貨準備も少なく,造船業は外貨獲得の花形として,また数少ない世界水準の工業として日本経済の立ち直りに大いに貢献しました。実際,昭和31年から昭和34年にかけて日本の年間総輸出額約28

 

 

 

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