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製造業の比率は、22.5%から27.4%に上昇しました。そのほかに大きなものは、建設業が18.9%から9.2%に、約半分になっています。後ほど詳しく言いますが、運輸部門の生産も減っています。一般に工業が発達すると輸送量はどんどん増えてきます。それにもかかわらず、交通部門の生産が減っているのは、コストダウンの結果であると読めます。

これらの統計はすべて1990年の市場価格に統一してあります。インフレーションは含まれていません。

日本の工業開発の歴史が表-3に示しています。1995年で、日本の大きな産業は電気産業が1位で21.4%です。2番が機械産業、3番が食料品、4番が輸送機械・自動車、5番が化学工業です。ここで注意したいのは、1960年の数値です。自動車、電気、機械、化学は、1960年ではほとんどゼロでした。日本の工業化の最も顕著なものは、この輸送機械・自動車です。電気、一般機械、そして化学工業と言えます。

日本の工業化がどのように行われてきたかを説明します。第2次世界大戦で日本経済は完全に崩壊しました。最初の10年間、日本の経済は混乱していました。それが1950年の朝鮮戦争によって、日本の経済のリバイバルが起こりました。最初の経済計画ができたのが1955年、戦争の10年後です。それから10年後、これが1960年の第3次経済開発計画です。この計画は所得倍増計画と呼ばれています。この経済計画とともに、三つの開発計画が立てられました。1番目が、新産業都市計画です。2番目が、工業整備特別地域の指定です。3番目が、全国総合開発計画です。これらの三つの計画は非常に成功し、日本は世界のトップクラスのエコノミーパワーになりました。そこで今日は、特にこの三つの計画について説明します。

まず所得倍増計画です。計画の目的は、第1に経済成長の極大化です。2番目が生活条件の改善です。3番目が完全雇用の実現です。交通と通信に関しては、総合交通体系の確立が目標となりました。土地の開発計画は、その当時日本は戦災のため非常に荒廃して、台風がくるたびに大きな災害が起きました。したがって、1番目の開発目標は、自然災害に対する対策です。2番目は、今日説明する産業の適正な配置です。3番目は、水資源の開発です。日本の家は、当時非常に粗末でした。それで、社会資本の改良と家の質の向上が大きな目標になりました。その第1次総合開発計画の予算は16兆円、450億USドルです。

ここで非常に特徴的なのは、費用便益分析というものを導入しました。これはそれぞれ、港湾、道路、鉄道といった投資セクターごとの投資効果を評価するものです。この計画のもとに、新産業都市計画が1962年にスタートしました。図-1、図-2で説明します。この地図で言いますと黒いハッチの部分が新産業都市です。全部で15あります。

 

 

 

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