初日の幕が開くまで 内田洋一
6000を超える命を奪った大地震が阪神地方を襲った95年1月17日、尼崎市のピッコロシアターでは一週間後「風の中の街」の初日を控えていた。若い劇団員20人は無事だったものの激しく動揺する。兵庫の県立劇団であり、劇団員の中に被災者がいる上に観客の多くが住む住域が崩滅している状況では予定通り公演を行うことは不可能だ。
さあ、どうするか。被災地で炊き出しでもなんでもすべきだ、今は何もやりたくない、といった意見が出たという。劇団は、演出の藤原新平さん、文学座から客演に招いていた金内喜久夫さんや松下砂雅子さんらの「役者に徹し、上演できる日のためにしあげておこう」という考え方を受け入れて稽古を再開。一週間後、関係者だけの前でひそかにゲネプロを行い、ビデオに収録した。私はその幻の初日を見ていないが、きっと抜き差しならないテンションを持った劇画成立していたことだろう。
周知のように劇団はそれから被災地の避難所で子供たちのための激励活動を52回も行った(その後第2次巡回公演を行っている)。最初は機材をキャリーに積み徒歩で、その後は軽トラックに乗って、粉塵と騒音にまみれ風景の歪んだ被災地を劇団員立ちは巡った。避難所の被災者は精神的に無感覚状態に陥っている。子供たちと時に取っ組み合いながら、プロレスごっこのように戯れるピッコロ激励公演は、精神の救援活動、演劇による癒しの試みであった。
秋浜代表は劇団員にこう言ったそうだ。役者は体で記録する者であり、体で粉塵のにおいとか、うずくまってる人の息づかいとかを記録する義務を君たちは持っている-と。4ケ月後の「風の中の街」公演に帰ってきた役者たちは見違えるほどたくましくなっていた。行き場のない都市の漂流者を描いた別役実さんの秀作がまた、被災者の現実に重なって見え、異様なリアリティをもってひりひりと迫ってきた。演劇とは時代を呼吸し、時と場所によって激しく変容する生き物のような「芸術」なのだと思い至ったことだった。
〈日本経済新聞社文化部次長〉
第2回公演「風の中の街」'95 5月19日金)〜 24日水)22日(月)除く