現代の日本において、「個人」「個人主義」について考えることは非常に重要な課題である。しかし、「個人主義」という用語は、日本においては誤って使われることが多く、エゴイズムと同義語にさえなる。このような誤解が生じるという事実は、そもそも日本人にとって、ヨーロッパに生まれた「個人主義」を理解するのが困難であることを示している。しかし、本論において、「個人主義」という場合は、欧米人が用いている意味において――それも私の理解が間違っていないことを願うが――用いることにする。
「個人」および「個人主義」という点について、私は自分が専門にしている深層心理学(depth psychology)の立場から考えてみたい。特に、そのなかで「個人」を支えるものは何か、という点に焦点を当てて論じるが、このことは心理学において用いられる、identityという概念に非常に近いことと言うことができるだろう。人間という存在は、自分が何かによって支えられているという確信をもたない限り、不安になるものである。そして、そのような不安が強くなりすぎたために心理的な障害が生じて、心理療法家(psychotherapist)を訪れる人もある。このような事実も参考にしながら、個人を支えるもの、について考えてみたい。
1. 日本人の「イエ」
伝統的な日本人の生き方としては、己を支えるものとしての「イエ」が極めて重要であった。というよりは、むしろ、まず「イエ」の存続ということが第一義としてあり、各人は自分の所属する「イエ」の存続と繁栄の方をまず考えた。ここにわざわざ「イエ」として表現したことは、先人の多くの研究が示しているように、それが必ずしも血縁による家族を示していないことが特徴的であるためである。
韓国やかつての中国においては、血縁による大家族が極めて大切である(現在の中国の状況は簡単には言い難いと思う)。それは「国」より大事であると言っていいだろう。フィリピンにおいても同様と思うが、他のアジアの諸国については、よく知らないので言及しない。このような国にあっては、「家族」の存続と繁栄が個人の欲望の充足よりも重い意味をもつ。
韓国人は日本人に比して、自己主張すべきときははっきりとするし、日本人のように論争を避けようとしすぎることがないので、韓国人は日本人よりも近代的であるとか、個人主義的であると言う人がある。しかし、それはそれほど単純ではない。韓国人は「家族」の外に出ると強く自己主張するが、家族内においてはほとんどと言っていいほど、自己主張をせず、「長幼の序」を守っている。あるいは、ある個人が社会的に高い地位を得ると、それによって自分の親族に便宜を与えることは、「倫理的使命」と言ってもよい。
このような「家族」を支えとする社会においては、もちろん家族が支えあっていく長所があるが、能力がない者でも親族を優先させるということが起こり、近代化を阻む要因となる。
これに対して、日本の「イエ」は、個人を中心に考えるのではないが、イエの存続のためには、能力のある者を「養子」にするという方法によって、血のつながりよりも能力を重要視する、という面が出てくる。あるいはまた、家父長の権限を絶対的なものとは考えず、「イエ」の繁栄のために家父長以外の者が方針を決めたりもする。極端な場合は、江戸時代にあった「主君押込め」などということも生じてきて、家父長の権限が他の者によって一時的に奪われたりもした。この際、個人の能力ということが家族内の年齢による順序や身分などを超えて評価されることがあったのは注目すべきことである。
日本がこのような伝統をもっていたことは、欧米の文明に接して近代化を行っていくときに、他のアジアの国々に比して有利になる、一つの要因となった。しかし、このことは日本人が個人主義的であったことを意味しない。開国以来、欧米の文明を取り入れることに努力したが、それはいわゆる「和魂洋才」の態度によってなされた。そしてそのような態度が拡大されて、天皇を中心とする「イエ」のために、個人を犠牲にするのは当然という考えとなり、このために、日本は大きい失敗を犯すことになった。
敗戦によって、日本人はその愚かさを知り、欧米の近代的な考えを今度こそは取り入れたいと願った。「イエ」の重圧によって、個人の成長や欲望の充足がいかに抑圧されていたかを思い知り、日本人は敗戦以来今日に至るまで、だんだんと個人主義の考えに近づいていったと思われる。しかし、そこには大きな課題が残されていた。
2. 近代自我とキリスト教
個人主義は近代のヨーロッパに生まれたものである。つまり、キリスト教文化圏から生まれてきた。