日本人社会における「個」の性質について話をし、それを世界的な視野から考察するようにとの仰せであるが、私にはそのような資格はない。私は日本人ではない。この問題を日本人以上によく理解している外国人はいないはずである。私は歴史学者であって、社会学者ではない。一歴史学者として、私は裏付けのない伝聞証拠は信用しない。個人主義論争の多くは伝聞証拠に基づいており、満足すべきものではない。
だが、たとえ資格がないにしても、私は日本の歴史を研究する歴史学者であり、その研究過程を通じて常に日本人の個性にかかわる問題について考えてきた。私の専門は国際関係史である。このため、ある程度は、日本の指導者や市民を他の諸国の指導者や市民と比較することになった。私は長いこと、日本の指導者は他の国の指導者とどのような違いがあるのか自問してきた。そしてしばしば得られた結論は、意思決定においては、伊藤博文、加藤友三郎、浜口雄幸ら、日本の指導者が示した個性は、統治する国の大きさの違いを考慮するならば、ビスマルク、ボールドウィン、シュトレーゼマン、フーバーらと、根本的には違っていない、ということだった。同様に、戦後の政治に目を向けても、池田勇人、田中角栄、中曽根康弘が世界の他の指導者と似たような個性を示さなかったとは言えない。しかも「ワンマン」政治で有名な吉田茂は、日本人にしては異例なほど個性的だった。
芸術や文学の分野でも、個性や独創性を発揮した作家は少なくない。日本の知識人やジャーナリストにも、それが見られないわけではない。彼らの個性には、(たとえば)アレクサンドル・ソルジェニーツィン、トーマス・マン、スティーブン・スペンダーに見られるものと際立った違いはない。
だがそれは最上層部のエリートのことである。問題はもっと下層の段階の個人主義である。私の見解を総論的に言えば、日本人は他国民に比べて家族、会社、国家、社会のために「個」をある程度抑制するところがある。しかしそれも程度の問題である。個人的な野心や競争本能など、平均的な日本人の特性には、やはり個性がはっきり見られる。他の国の国民に比べて日本人のほうが会社や組織に忠誠を示し、そのためには個人の利益を犠牲にしてもよいと考えがちであることは疑いない。しかし、会社に対するこのような忠誠が、しばしば家族という別のグループに対する忠誠の欠如を伴うことは興味深い。
これと比べると、英国の従業員は自分の会社に対してそれほど忠誠を示さず、労働組合に参加することによって会社から自分を守ろうとするかもしれない。だがそれは、日本以外の国民は会社、国家、社会のために自分の個を捨てようとしないということではない。しかし、それほど一般的でないことは確かである。西洋には、個人(または家族)を第一に考えるという暗黙の前提がある。大学の教師として私が課せられた任務の一つは、話し合いや討論を通じて、学生の個性を引き出すことだった。われわれは個人のことを「粗野な個人主義者」とか「粗削りのダイヤモンド」と呼んだりするが、それは個人がまだグループの約束事に合うように造り上げられていないということにほかならない。
個人主義は過去二世紀の間に多くの国で形成されてきた。長期にわたってビスマルクの統治下にあったドイツは君主国家であり、基本的には専制主義かつ官僚主義であり、個人の権利を国家社会主義の名において抑えつけてきた。しかし、日本以外の多くの国は個人主義の伝統をもっている。この伝統は、米国の場合は憲法、英国の場合はマグナカルタと権利の章典に遡るものである。このため、これらの国民が個の問題、あるいは(その一側面として最近になって注目されるようになった)人権の問題に関して譲歩することは、より困難であり、あまり見られないことである。
「個人主義」という西洋の理論はジョン・ロックにまで遡る。それを継承発展させたのがジョン・スチュアート・ミメルであり、それは後に、独創性を称え、画一性を軽蔑した一九世紀英国リベラリズムの信条となった。これがその後、西洋民主主義の政治思考の傾向を決定した。それはさらに遡ってキリスト教そのものにまで繋がるとする論もあるが、このような見解は欧州では批判を浴びた。
しかし、二〇世紀に入って戦争、工業化、経済不況の波が欧州や世界を襲うと、個人主義に異議が唱えられた。ある段階では、自由放任主義によって傷ついた人々や虐げられた少数派を助けるために国家の介入を求める声が高まった。また別の段階では、二〇世紀にマルクス主義やファシズムに走った国家、あるいは社会主義、共産主義、国家計画を取り入れた一部国家が個人主義を攻撃し、無視するようになった。
現在の日本は、かつての集団意識との一体感を幾分なりとも失った一億二五〇〇万の個人が住む国である。現代の日本人は自分のために勤勉に働くこと、自分のために貯蓄すること、自分を頼むことで知ら