まうのであった。解剖学実習で運慶のようにはなれなかったが、少なくとも解剖とは「形を読む」ことに他ならないと痛感した。
文献や講義で得た骨学、筋学、脈管学、神経学などの知識をオーバーヘッドプロジェクターのシートを重ね合わせるようにして、一枚の絵にする。さらに不完全な三次元構造を洞察して、上腕二頭筋に沿って正中神経、その深層に上腕動静脈と、イメージをふくらませてゆく。おぼろげに再構築されたものを、実際に遺体に照合してゆく。
形を読む上では正確な知識はむろんのこと、見る者のセンスがかなり大きいのではなかろうか。一六ハ八五年『ビドローの一〇五図の人体解剖学』、三〇〇年以上前にこのような精緻な解剖が行われたことは驚きである。一方日本では、江戸時代の山脇東洋の解剖図を見ると、きわめて単純、おおまかな線によって描かれ、果たして本当に解剖をしたのかと疑うような図である。
つまり、形を読むこと、これは見る者の資質に大きく左右されるものなのである。そして実際に手を動かす実習は、形を読み、人体を知るうえで、不可欠であることを痛感したのである。
ビドローの解剖アトラスの序文にある言葉、「数学の真理が数と図形の証明によって発見される」のと同様に、「解剖学の真理は剖検による検視(肉眼で見ること)によってのみ発見される」、まさにこの言葉は現在も生きていたのである。
解剖における最初、自分の中で「″死体″