さて実際の解剖に入ると、これはまた大変な作業だった。人間の肉体はある程度まで複雑な構造であることは予想していたが、その複雑さは個体差に属する類のものだろうと考えていたのである。ところが我々が解剖させて頂いたご遺体は、九十歳を越える高齢であったにも関わらず、血管の一本一本から筋肉の一筋一筋に至るまで教科書にある通りにあるべき所に正確にあるのである。人間の肉体は基本的には皆同じなのだ。やはりそれらの名称は覚えねばならない。その学習量は実習時間に比して膨大なものだったので、とても生命の尊厳について深く実感しながら勉強するというわけにはいかなかったのが残念である。
最近では分子生物学が長足の進歩をとげ、生命を語り尽さんばかりの勢いである。私もどちらかと言うと分子論的なアプローチの方が得意であり、マクロな視点で物を見るという経験に乏しい。その意味で今回の実習は素晴らしい経験の場だった。期待していたように科学に対する視点を大幅に拡げることができたように思う。しかしながら実際には、生命現象は全て有機化学的、電気化学的反応の集積であると思っている。発生段階でそれぞれの機能、形態を持つ細胞に分化する過程においても例外ではなく、ひいてはそれが想像を絶する程の複雑で精緻な構造物をマクロに構築したとしても、それはやはりすべて有機化学反応の集積の結果であろう。
やや逆説的な意見を述べたのは、解剖を終えて「神」の手によるものと考えざるを得な