初日のセッションでは、日本とヨーロッパの創作環境やダンサーの意識の違いが、特にクローズアップされた。「ダンサーの個性をクリエーションに反映するのがコンテンポラリー(ダンス)の基本的条件」とする日玉氏は、コリオグラファーとダンサーが創造上のパートナーの関係にあるローザスに比べ、日本のダンスの創作現場では、両者が「教師と生徒」「教える、教えられる」といった関係になってしまい、その硬直した関係が新しい創造力の発揮を妨げていると指した。
教育の大切さは認めたうえで、教育の目的がテクニックの習得に片寄っている限りは、創造のパートナー(アーティスト)としてのダンサーが育たないばかりか、コリオグラファーの要求通りに動ける力のあるダンサーすら生まれない。ローザスと、そこに併設された教育機関であるパーツ(Parts=Performing Arts Research and Traiing studio)では、「フォルムの呪縛からの解放」を目的とした多様なプログラムをダンサーに課すことによって特定の様式にとらわれない自由な身体を作り上げているという。また、パーツでは、哲学、社会学、映像など知的教育も重視することにより、アーティストとしてのダンサーの育成に力を注いでいるという。コンテンポラリー・ダンスの教育機関が全くないといっていい日本で、若いアーティストが自主的に取り組まねばならない課題がここにある。様式にとらわれないようにするためには、まずコリオグラファーがダンサーの個性をきっちりとつかむこと。そのためにはいろいろな観点から個性を評価できる目を養うように教育プログラムに偏りがないようにすること。そして、教える側が「新しさ」を評価できる柔軟さを持つことだ。さらにはアートを支える側にもこの柔軟さは求められる。「新しさとは、ときにはわけのわからないものだ。わけがわからないからダメだ、といわれるとコンテンポラリーじゃなくて、評価の定まった古典や既存の技術の発表会になってしまう。批評は、ダンスのテクニックを上手下手を指摘するだけでなく、もっと作品のコンセプトを評価すべきだし、助成先などを決める人たちもそこに気付いてほしい」との参加者の発言は、「コンテンポラリー」を志すアーティスト共通の思いだろう。
2日目のセッションでは、ローザスの創作の現場に焦点が当てられた。手話の講師を招いてのワークショップやピボナッチ数列を使った動きの解析なと、ローザスの創作法が披露され、参加者は熱心に聞き入った。しかし、興味深かったのは、実は創作の中味そのものではない。動きのボキャブラリーを豊かにするための様々なシステムを積極的に考案したり、貪欲に他から取り入れたりしていることだ。作品は、テクニックのみでは味気ないし、感覚のみではバラバラになる。ローザスでは、まず作品の趣旨の説明を受けたダンサーが、動きを考え、それをどんどんコリオグラファーに提案をしていく 一方、コリオグラファーは、自身のテーマやイメージによってダンサーのボキャブラリーを取捨選択し、作品を構築していく。その際、ダンサーの持つ動きのボキャブラリーが乏しければ、作品は次々にマンネリ化していってしまう。それを避けるために、ダンサー自身が様々なテクニックを自分の道具として自由に使いこなせなければならない。このようにダンサーが、ボキャブラリーを開発できる場と、それをコリオグラファーに提案てきる環境かローザスの創作のしくみそのものである。この開発と提案においてダンサーは創造に深く寄与しているのであり、彼等をコリオグラファーとともにアーティス卜と呼ぶ理由はここにある。