2 産業の過去と現状
島である東和町の産業は第1次産業を主とする。面積の6割強が山林原野であるが、江戸時代からサツマイモ、ついでみかんの栽培に利用されて来たこともあって、林業はほとんど行われておらず、林業従事者は皆無といってよい。山地を利用した農業として、こんにちでは柑橘類の栽培が行われ、みかん畑が山地に及ぶ景観が当町の特徴となっている。しかしこのみかん栽培については、その前史としてのサツマイモ栽培にふれておく必要があろう。
大島でのサツマイモ栽培は、享保17年(1732)に起った享保の大飢饉を契機に導入されたのにはじまる。その限りでは全国各地でとられた対策にならうものといってよいが、地域が小さいだけにその果たした役割は大きかった。以後100年間で人口は3倍以上となっている。このサツマイモの栽培による人口の増加は明治20年前後にピークに達し、その傾向は明治30年代にまで及んでいる。しかも主たる栽培地が、水田耕作の困難な大島の東部、こんにちの東和町地区であったため、西部の水田地帯の人たちは「島末のイモ喰い」といって軽蔑したという。いまでも「金時イモ」は当町の名産の一つである。山の頂きまで段々畑が開かれたのは、サツマイモ栽培の普及によるものだったわけである。
そのサツマイモ畑が温州みかんを主とするみかん畑に代って行くのは明治30年代である。みかんの栽培は明治17年に大島中部日前からはじまったとされるが、30年代に入ると養蚕とともに島の基幹産業となった。以来消長があったが、東和町でもこれが基幹作物とされ、昭和41年頃がもっとも高収入を得た時期で、他所から帰島した者も少なくなかった。しかしその後過剰生産や輸入自由化など厳しい事態が続いている。
高齢化による労働力の不足は、栽培が段々畑、急傾斜地であることもあって、経営を