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体安置所そのものの運営は福祉事務所が行うが、安置所となる旧下山手小学校が廃校のため、区役所からも人員が出ることになる。区役所からは私、地域福祉課の小澤さん、課税課の島井さん、福祉事務所からは白井主幹、藤本係長などが向かう。

既に下山手小学校には避難者が集まっていた。しかし教室は一部を除いて閉まったままであり、開いている部屋もごみなどが散乱しているので、部屋の開放および清掃を行う。また、遺体安置所は2階の体育館を使用し、避難者が入らないようにする。また、本部を校舎中央の給食室横の冷蔵庫室(木造)に置く。 避難者はこのころ既に数百名、最終的には500名ほどになる。なぜかみな1階に入り、2階以上に入る人はほとんどいなかった。また、200名ほどは運動場で焚き火をして寒さをしのいでいた。下山手小学校は廃校なので電気がなく不安だったが、夕方暗くなる直前に電気工事が終わり、ほっとする。

 

18時〜 :本部との連絡は殆ど不可能の状態が続き、連絡は福祉事務所の車に頼るのみであった。また、やむを得ないことながら食料の配給などはなかった。夜半になって水道局から水の配給があったが、廃校ゆえに受け入れる資材が少なく、絵の具のバケツやごみ箱を使って水を貯める有り様であった。また、食料は差し入れがいくつかあり、本部でまとめて配付した。本部から毛布が届いた時は配布をめぐって混乱がおきてパニックになりかける。

遺体は夕方ごろから入りはじめる。安置所の運営は福祉事務所、避難所の運営は区役所であったが、ここでは分担することなく協同して行っていた。体育館は非常に冷え込み、遺体に付き添っておられる方にはつらい環境だったが、毛布とわずかな食料を優先的に回す以外になすすべがなかった。

職員もわずかな食料を口にしただけで、一睡もすることなく安置所と避難所の運営に立ち回っていた。

 

◎1月18日

0時〜 :遺体は夜通し運び込まれたが、夜が明けて救助活動が再開されると運び込まれるペースが上がった。多くの遺体が毛布に包まれて床の上に直接安置している状態だったので、体育館のカーテンを引きちぎり、遺体の下にしく。

 

避難所は夜が明けて家に戻る人もいて少し落ち着く。昼ごろに福祉事務所の交代要員が来られたが、区役所の交代要員がまだなので本部に要請する。ようやく交代要員が来られたのは14時すぎだっただろうか。

 

14時頃 :本部に帰ると人数・体制ともに前日よりは整っていたが、要望・苦情が殺到し、混乱の度は増していた。ほとんどの要員は物資の上げ下ろしと配送の手配を行っており、私もその中に入る。具体的作業についてはほとんど記憶が抜けている。食事などのわずかな休息を除き、作業が深夜まで絶えることなく続いた。

 

◎1月19日

〜3時頃:夜半ごろになってビール瓶に入った水が大量に届く。その量の多さとケースビール瓶の重さに、飲まず食わずの体が限界に近づく。途中で1本失敬して元気を取り戻すが、1時間ほどでそれも尽き、みなさんには悪かったが仮眠をとるために4階のロビーに向かう。既に土井係長が休まれていた。

 

6時30分:谷上課長に起こされる。わずか3時間だが、先程のフラフラとした感じはなくなっていた。さっそく荷物の上げ下ろしを行う。昼過ぎまで同じような作業が続いたのか、具体的には記憶がない。

 

15時頃?:誰からかは記憶にないが、海上自衛隊の飲料水と食料を第4突堤に停泊中の護衛艦から運ぶ指示を受けた。トラックを手配して、4突に向かう。到着すると護衛艦から荷物の上げ下ろしが行われており、それをトラックに積み込む。荷物の上げ下げの要員の隊員と共に区役所へ向かう。

区役所に到着すると、水を葺合総合会館に持っていくように指示を受ける。直ぐに区役所を出発したが、渋滞によりかなり時間がかかる。葺合総合会館では水の受渡し方法に本部との手違いがあって混乱が生し、パニックになりかけた。やっと受渡しが終了したあとは、区役所に戻るが、上げ下ろし要員の隊員を護衛艦まで送るための車を手配するのに奔走した。

 

20時頃?:最後に隊員を護衛艦まで送り届けたのは、暗くなってかなりたった時なので20時ごろであろうか。遅くなった事のお

 

 

 

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