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しくなってきた。ボランティアもたくさん駆けつけてきて、経験のない我々はその受付に右往左往する有り様で、とりあえず物資の積み降ろしの手伝いをお願いした。物資の配送に行った職員や駆けつけて来る市民からの情報で、避難所と避難者がどんどん増えているのが判明し、物資搬送班への連絡や指示・調整で本部は騒然としていた。

昼前になって電話回線が復旧した。それまで静かだった電話がいっせいに鳴りだし、本部は大混乱となった。まだ余震の続く中、家が傾いてきたなんとかしてほしい、救援物資がほしい、そして安否確認。出勤して来る職員は増えているのだが、どうにも手が足りない。つけっ放しのテレビだが誰ひとり見ているものはないしついには区長、副区長までもが電話応対に忙殺される事となった。深夜になってやっと小康状態を迎えることができた。そうなってから職員は交替で2〜3時間、毛布一枚を巻き付けていすに座って仮眠を取った。この状態は数日続くことになる。

19日の深夜と言うより20日の午前2時ころ、初めての災害対策本部会議を開き、区を4つのブロックにわけ避難所への物資搬送ルートを決めるなど本部体制の整理を図るとともに、予想される長期戦に備えて、勤務ローティションの作成と交替で一度帰宅し体を休めるよう本部長から指示があった。

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区庁舎1・2階には120人程の避難者がいたが、本部への人の出入りが激しく混雑するのと寒いので、21日(土)の夕方、少しでもましな隣の勤労会館へ移っていただいた。22日から夜間の救援物資の積み降ろしを自衛隊がやってくれるようになり、体力の限界にきていた職員は大いに助った。また、ほとんどの職員が出勤できるようになり勤務ローティションも何とかうまく動き出した。

この頃から市本部からいろんな情報がファックスでどんどん送られて来るようになったが、本部にはそれを整理し各部署へ周知する要員がうみだせず困っていた。

24日から経済局の応援職員4名がきてくれることになり、特にお願いをして林課長に常駐してもらい、情報処理専任チームのチーフになってもらった。これによりそれまでの悩みが一挙に解決し情報がうまく流れるようになった。

地震から2・3日たちショックから立ち直り落ち着きを取り戻して来ると、市民からの要望も、食料・飲料水・毛布・などの緊急物資の要請に加え、ガスコンロ・ストーブ・携帯カイロなどの暖房用具、医薬品、簡易トイレの設置・くみ取り、風呂、など広範になってきたし、問い合わせの内容も親族知人の安否確認とともに、・電気・ガス・水道などのライフラインの復旧見込み、交通機関や道路の状況、避難命令の出ている倒壊家屋に家財道具を取りに入ってもよいか、自分の家が安全かどうか判定してほしい、つぶれた家を早く取り除いてほしいなど、今後の生活の再建に関するものに変わってきた。

本部を置いた福祉事務所では災害対策業務に加え、本来の通常業務もすぐに動きだしており、いつまでも災害対策本部事務室として占拠しているわけにもいかず、また、各フロアの事務室も自衛隊の手助けで片付いていたので、2月1日に4階小会議室に本部事務室を移した。

また、この日から食料の避難所への配送が民生局災対本部の直轄となり、給食業者が直接避難所へ配送することになった。その他の物資については区対策本部が引き続き扱ったが、各地からの炊き出しの申し出の受け入れや、新鮮な野菜やマグロの刺し身など鮮魚の提供の申し出の受け入れとその調整、避難所の臨時電話の仮設や電灯増設工事の発注・工事立ち会いなど対策本部は相変わらずてんやわんやの忙しい日が続いた。

4階小会議室はもともと狭かったのだが、他に部屋がなく、やむを得ず本部事務室としていたが、4階大会議室にいたボランティアに7階や勤労会館に移ってもらい、2月13日に本部事務室を大会議室に移転した。

それまでに市対策本部から次々と打ち出

 

 

 

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