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ごあいさつ

 

 

日本財団 会長

曽 野 綾 子

 

本日は、高齢者ケア国際シンポジウムのために各地からお集まりいただきましたことを心から御礼申し上げます。

シャスティン・ルンドストロョーム先生、ヴァージニア・バレット先生、クリストファー・パウロス先生には、遠方よりご出席いただき、その国独自の高齢者に対する温かい愛の知恵をお分かちいただきますことを、あらためて御礼申し上げます。また、日野原重明先生、稲庭千弥子先生、長谷川宗義先生、原寿夫先生にも、シンポジウムのためにお忙しい時間を割いていただき、感謝申し上げます。

私はかつて、私の母、夫の両親の3人と同居しておりました。この3人の親たちはそれぞれ、83、89、92歳で、3人とも私たちの家で亡くなりました。亡くなる日の朝まで、私たちは、それぞれの親がまさか亡くなるとは思っていませんでしたので、平凡な1日を過ごしていたのです。

台所からはいつものように野菜の煮えるにおいがし、私は忙しく歩き回り、夫は猫をからかったりしておりました。すべてが限りない日常性のなかにあり、そのような日々の暮らしのなかで、3人が旅立っていけたことを私は心から感謝しております。

そして、いまあらためて考えてみると、そのうちの2人に、程度の差こそあれ、痴呆症状が現れておりました。

私の母に関しては、初期のころは、ごくわずかな人格の変質に始まる不思議で、理解しがたい言動に悩んだものでした。そしてその当時は、母が生きながら死んでいくことに、私はいら立ったり、悲しんだりしていたのですが、いまでは、その経過のなかに人間の運命と安らぎのようなものを見いだしています。

母の意識がまだしっかりとしていたときからの希望により、亡くなった数時間後には、眼球、角膜の提供が行われました。そのときに来られた東京大学の眼科の先生は、お香典を置いていかれましたが、それは当時から私がやっていた途上国援助のNGO組織に寄付しました。また、母が自分の目であがなったお金は銀行の通帳に記載されていますが、それはいまでも私の誇りです。

母が亡くなった日、それは素晴らしく晴れた日でした。私の家では、自分の家の都合で社会に迷惑をかけてはならないという夫の主義から、母の死は半日ほど隠して、私は、大阪へ講演に行く日程を変えないことにしました。母は、7年以上ベッドにいて、外出したことはありませんでした。しかし、その朝、初めて私は、母の魂とともに旅に出られたという喜びを実感しました。

母は、決して平坦な人生を歩いた人ではありません。気難しい夫と、一日として心休まる日がないような結婚生活を送り、若いときには、まだ子どもだった私を道連れに自殺未遂を図ったこともあります。私が作家になったのは、私なりに子どものときから人生の深淵を見尽くしたと感じていたからでしょう。しかし、反応を失ってからの母は、自然で、素晴らしいものでした。母とともに、私もその長い年月の困難を生き抜きました。母と私は結果として、人間の運命を100%受け入れたことになります。しかも、そのときほど私たちの家族は、知人、友人、周囲の人たちの思いやりに包まれていたことはなかったのです。

痴呆になってからの母は、ひとり娘である私の自由、時間、心遣い、労力、お金などを奪っているように見えないでもありませんでした。しかし、事実は違います。母は、人間の生涯の全体像を教えて、与えていたのはむしろ母のほうだったのです。

しかし、痴呆患者を介護することは苦しいことです。そして、苦しいときには助けが必要です。社会のシステム、経済的な問題、住居、看護技術、心の持ちようなどに対して、私たちは助け合わねばなりません。

聖書のなかに、「受けるより与えるほうが幸いである」という素晴らしい言葉があります。しかし、私たちは弱いものですから「多くを受けて多くを与えることは幸いである」と思いたいのです。

そのために、力と知恵と、なにより温かい心を出し合ってください。このシンポジウムが意義深いものになるよう、本日お集まりいただいたすべての方々に、その協力をお願い申し上げます。ありがとうございました。

 

 

 

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