やや辛辣にすぎるが、町田市リサイクル文化センターが十分な成果をあげられなかったのは、ごみ問題が市民参加や生活スタイルの見直しの問題と短絡されて、一挙に理想に走ったからであろう。しかしなお、制度疲労(さらに内部腐敗)の極にありながら改善の曙光が見えない縦割り行政と市民の生活軸が直交している状態は、不幸にもこの5年間に何ら変化していない。これを先取りした結果として、地元のボランティア型大学教員もプラザ創設の4年前から参画して、市民大学・市民研究・市民工房の連携像を探ってきたことだけは、自画自賛しても許されるであろう。
ちょうど2年半前には不幸にも阪神淡路大地震があり、ボランティア活動の奔出を促した。来月には京都でCOP3が開催され、腰の引けた政府にかわって、温暖化ガス削減の具体策が民間レベルからも続々と提言されつつある。筆者らが1983年に提案した「環境家計簿」にも、ようやく第2波が打ち寄せ、あるいはLCAの形をとって、実践データが蓄積されだした。こうしてほぼ、リサイクル社会創発の準備が整った。
1992年10月31日、プラザは「フォーラム「地球にやさしく」〜今、わたしたちが21世紀に引きつぐもの」を開催した。この司会をした筆者は、表現・映像・流通・消費者など各界のパネリストにリサイクル文化の本質を問いかけた。環境考古学的には、拙速に走らないで歪んだ廃棄物社会の記録を確実に後世に残すこと、映像リテラシーの力を借りること、小型トラックの年間物流量のわずか1/3400の労を厭う消費の意味を問うこと、関連して「やさしさ本位制経済」の見本を廃車王国日本が提示すること、そしてこれらを総合した「リサイクル劇場都市・吹田」をプラザを本山として実現すること、などであった。
コンポスト機械の開発を題材にしたミュージカルが上演されたのは昨年、今年発刊された黒川博行の『疫病神』は産廃問題の裏社会を抉り出したSF(social fiction)で、すでに映画化が決まっている。筆者の講義「生活環境論」から「リサイクル劇場都市・吹田」を引用して締め括ろう。
リサイクルに「ヽ」をひとつだけ加えると、リサイタル(recital;recitative(レチタティーボ)/語源的には聴衆をまえにした朗誦)になる。これがオペラの中心にすわり、オペラにメロディとパフォーマンスが加わってミュージカルになり、コメディだけではない悲劇・寓話・幻想などの演劇性をもつようになる。リサイクル劇場都市を実現するには、リサイクルの面白さ・楽しさを各種メディアを通して市民的に発信して、小説家・劇作家・シナリオライターたちの意欲に誘い水をむけることが必要である。劇場を特定する必要はない。もっとも重要なのは、演出家の養成である。