千里リサイクルプラザ5周年記念
1997.11.14
基調講演 創発!リサイクル社会
研究所長 末石冨太郎
1. リサイクル事情の変貌
「創発」とは、最近の論壇で定着した“emergence”の日本語訳で、この言葉の本来の意味は「迸り出る」ことである。やや皮肉にいえば、廃棄物が依然送り出ているから「リサイクル社会」が声高に叫ばれるのであるが、プラザ創立の5年前と現在とを比較してみよう。
1992年は6月にブラジルで地球環境開発サミットが開かれた年であった。筆者はおよそ環境とは無縁の学会・団体などからも地球環境問題の講演に担ぎだされ、当時から、熱し安く冷め安い日本の先行きを憂えていた。
吹田のリサイクル事業は地球とは無関係に始まった。“think globally, act locally”がうまく地域と地球の両方をたてる形で用いられたが、この用語もすでに色褪せかけている。同様に、1991年の流行語に『地球にやさしい○○の方法』が吹き出し、書店の棚に平積みになった。この基本を遡ると、72年にアメリカで家庭の主婦が書いた“live lightly”が原典のようである。これとよく似た関係をとらえれば、日本でのリサイクルは、牛乳パックのリサイクルから始まったといってよい。しかし、これらのニュースも新聞では、社会面よりも家庭面で扱われ、リサイクルや分別の手仕事を主婦に依存して当然とした感があった。もうひとつのリサイクルの立役者は空き缶であった。特にアルミ缶のリサイクルが精錬のエネルギーを97%節減するとして、再資源化原料の収集が市民の手に委ねられ、またリサイクルアートの素材としても重宝された。
しかし徐々に、より冷静な分析が加えられ始めた。槌田敦は資源物理学の立場から、紙パックリサイクルのエネルギー損失を論じ、槐一男は綿密な現場取材から“can to can”の欺瞞を暴露した。一方、長年回収率50%超を維持してきた故紙は、リサイクルの優等生なのだが、紙の使用そのものの大量性のかげで市場のバランスが崩れ、リサイクルを口実にして大量生産・消費・廃棄社会を維持することの限界も明らかになった。
92年には回収率がわずか0.2%であったPETボトルのリサイクルを37%に高めようとする「容器包装リサイクル法」は、上記のような意味で、産官学民が一体となって当たるべき課