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『春のパレード』の世界

寺崎裕則

 

“元気印”のオペレッタ

昭和10年(1935年)、ハンガリーとオーストリアの合作映画『春のパレード』が日本で上映され、その主題歌とともにフランチスカ・ガールの可憐さが圧倒的人気を呼んだ。昭和10年代に青春を過ごした方なら、又、戦後まもなく青春の真っ只中にいた方ならリバイバルで懐かしく、あの感動を思い起すことだろう。

その『春のパレード』が1941年、ハリウッドで『青きダニューブの夢』と改題され、ディアナ・ダービンが主演。日本では戦後まもなく上映されて、まるで砂漠でオアシスに巡り会ったような思いであった。オーストリアでは1955年、原作者エルンスト・マリシュカが監督もしてローベルト・シュトルツと組み、17才のロミー・シュナイダーがデビュー、母親のマグダ・シュナイダーやハンス・モーザーといった名優が周囲を固めて、ヨーロッパで大ヒットした。だが残念ながら日本では上映されていない。

三回も映画化されたにもかかわらず舞台化は意外に遅く、1964年、ウィーン・フォルクスオーパーで初演され、大ヒット、大ロングランとなったのである。『春のパレード』は、まず何よりもローベルト・シュトルツの音楽が素晴らしい。春の光のように輝かしく、美しく、どんなに沈んでいる人も、聞けばたちまち明るく陽気に、エネルギーが湧いてくる、まさに“元気印”のオペレッタだ。しかもロマンティック。主題歌「春のパレード」をはじめどの曲も、一度聞いたら忘れられない名曲揃いである。シュトルツは1933年の初映画化の音楽で、ヴェニス・ビェンナーレ金賞オスカーを獲得、世界にその名を轟かせた。いわばシュトルツの絶頂期の作品だ。

この時代、1930年から35年にかけては、ナチスが黒い翼を拡げた時。不景気、失業、不安、そうした時代、人々は娯楽に走った。『春のパレード』で描かれた乙女の純粋な恋、愛が、あらゆる困難を氷解出来る、そんな思いを人々に与え、それが当時の人たちに共感を与えた。

ストーリーはまさに青春そのもので、可愛いハンガリー娘マリカに、古き佳き都ウィーンでどんな運命が待ち受けているか-という美しい“愛の冒険譚”。それに中年、初老と三世代の“恋のアヴァンチュール”が観る人の夢をつむぐ。

 

シュトルツの音楽と生涯

ウィーンのシュターツオーバー近く、ゲーテの銅像とリングをはさんでシラーの銅像がある。その前にシュトルツの名を冠した小さな広場があり、その脇にシュトルツのシックな仕事部屋がある。窓の向こうには美術史美術舘が見え、さし込む陽の光が彼の愛用した古ぼけたピアノを浮かび上らせている。ここからヴィーナー・リートやシャンソンなど2000曲、オペレッタ映画などの映画音楽100、そして50のオペレッタが生まれた。95年の生涯とはいえ、気の遠くなるような話だ。

ローベルト・シュトルツ(1880〜1975)の音楽の特色は、ごく平易で、ごく自然で、クラシック音楽の基礎をしっかりもちながらそれをおくびにも出さず、誰にも親しまれるロマンティックなメロディで、人懐っこく、人の心の奥底に空気のように入り込み、たちまち口ずさみたくなる。都会的で、上品で、甘くて、それでいてちょっぴり哀しくて、甘ずっぱくて、感傷的。日本人の感性にぴったりな音楽だ。

シュトルツの五人目の妻、40才年下のアインツィ夫人は、今なお彼の音楽を世界中に普及しようと、エネルギッシュに活動している。彼女はローベルトという言葉が出るともう目をうるませ夢見るように語った。「ウィーンとベルリンで1920〜30年代のヒット曲は殆どあの人の手になるものなの。彼の豊かな創造力の瀕はみちあふれる心情、喜び、感激、恋、愛-。と同時にそれとは正反対の幻滅と哀しみだったわ。彼にとって最大のインスピレーションは美しい婦人への愛-。恋し、愛しては裏切られ、すべての財産をもっていかれ、残ったのはいつ

 

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