大阪市
Osaka
■持続可能な開発に関する経験
西部臨海工業地帯は、第2次世界大戦以前から、ばい煙による大気汚染がしばしば問題となり、大阪市では大阪府と協議して1900年代初め頃からばい煙防止対策に取り組んできた。その活動は、産業界や市民に対する啓発、石炭燃焼方法の改善指導等であったが、同時に降下ばいじん量の測定、経済的影響等の調査研究を実施し、戦後の大気汚染対策に対する貴重な資料を残した。大阪市では戦前から下水処理場やゴミ焼却施設といった都市基盤整備が先進的に行われていたため、戦後はまず地盤沈下、大気汚染の問題が顕著となった。
まず第一に地盤沈下対策の取り組みがなされ、防潮堤の改修整備や橋梁の嵩上げを行うとともに、地下水の汲み揚げを規制して、工業用水道の建設とクーリングタワーの普及で、短期間で地盤沈下を終息させた。
手のつけようがないほど悪化していた大気汚染についても、公衆衛生部門の技術者層が厚く、大気の観測.測定資料が豊富に蓄積されていたこともあって、体制の整備に時間はかからなかった。1962年に設置された大阪市公害対策審議会は、大阪市の市街地の特性から、西部臨海工業地帯を「特別対策地区」に指定し、これを「大工場集中地域」と「中小工場群の密集地帯」に分けて、異なる方式で同時に対策を進めた。「大工場集中地域」は「此花区特別対策」として進めた方式で、大工場をまとめてグループ化し、大工場の技術力を公害防止の全面に引き出し、自らが公害防止計画を策定するというパターンを定着させた。これによって、大阪市の技術者をこの地域に投入する人数は少なくてすんだ。「中小工場群の密集地帯」は「西淀川区公害特別機動隊方式」で、大阪市の技術者を大量に投入して、短期間に地域内の多数の工場を一挙に改善しようというものであった。また、住工混在型の工場を工業適地に集団移転させる事業を積極的に展開した。特筆すべきは、大気汚染観測網による豊富なデータと、立入調査に基づく多数の工場の施設。設備の規模、使用燃料・原料、煙突の高さなど、煙源に関する詳細な調査資料を蓄積していたこと、さらには、大学、研究所等の科学者、専門家の全面的な協力を得て各工場毎の汚染寄与率を算定し、各々の削減率を明示し得たことである。
行政が科学に裏付けされた施策を打ち出し、マスコミや市民の指示を得ながら、また一方では、発生源たる企業においても社会的責任の自党をべースにして、大阪の町をきれいにする方向に動いていったことで大阪市の公害対策は成果をあげた。