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しかしそれは長く続かず、「人口論争」の口火がきられた。この時期の人口政策に関する議論は様々であるが、その中で最も有力な議論は、57年7月の全国人民代表大会で書面発言した馬寅初(北京大学学長)の「新人口論」である。この50年代の後半に展開された「人口論論争」はこれまで「社会主義には人口問題は存在しないし、マルサスの人口論は資本主義擁護の最も反動的理論である」と主張してきた中国が、現実に存在する過剰人口問題解決のための産児制限や晩婚の奨励をいかなる論理的な根拠の下に実施すべきか、自然増加率をどの程度に維持すべきかをめぐって展開されたのである。

 

1958年6月から始まった大躍進運動は、大躍進という積極的経済拡大政策をかかげたにもかかわらず、翌年からの3年連続の自然災害などで農・工業ともに好ましくない結果に終わった。しかし、「人間はものを食べる日は1つであるが、働く子は2本だ」とし、人口増加は経済発展の原動力であり、生産力増加の方が人口増加を上回るものであり、出産を抑制する必要はないという「人手論」、「人口資本論」が抬頭した。

1958年から20数年におよぶ農村人民公社の時期、生産の経営管理を誤り、分配では平均主義をとり、生産物は家族員数に応じて分配した。これは一方では、農民の生産に対する積極性をくじき、農村経済の発展をスローダウンさせ、他方多くの子どもをつくらせる結果となった。要するに、幼児にも強い労働力をもつ大人と同じように、家族員数に応じて基本食料を分配する方法を取ったので、子どもをたくさん生んだ家族が経済上多くの利益を得るという状況が存在したからである。

 

新たな計画出産政策への転換は60年代に入って始まった大ベビーブームに対してからのことであった。1962年、中央、地方を通じての計画出産指導組織が設けられた。だがわずか2年で文化大革命の影響を受け、運動としては中断された。72年に再開されるまで、65年からわずか6年間で人口は1億2,000万余も増加した。73年には国務院に「計画出産指導小組」が設けられ、「晩婚・晩産・一組の夫婦は子ども2人まで」が提唱された。60年代の運動が大都市に止まったのに対して、農村および全国の出産率が70年代に急減し、この提唱は明らかな効果を上げた。そして、1979年には、さらなる徹底を目指して、「一人っ子政策」が推進されることとなった。

 

 

 

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