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ロホブィチは13世紀以来の古い都市であり、ソ連への併合(1939)後は独立した州を形成していたが、フルシチョフの行政区画合併運動の下、リヴィウ州と合併した。19世紀中葉いらい石油を産出し、石油がほぼ枯渇したこんにちでも石油化学をはじめとする諸工業が位置している。現在、市部・農村部ともに8万弱の人口を抱えている。これとは対照的に、ラデヒフ地区は、リヴィウ州の北東部に位置し、農業と砂糖精製を主要産業とする、典型的な農業地区である。市部人口は約1万3千人、農村部人口は約4万人である。

1990年3月革命から1991年8月クーデター未遂事件までは、両地区の地域政治の展開はやや異なった。工業的・プロレタリア的なドロホブィチ地区の方が、ソ連共産党の勢力が強固に残存したのである。1990年3月の地方選挙の結果、ラデヒフ地区ソビエトには1名しか共産党員(地区党第一書記)が当選しなかったのに対し、ドロホブィチの民族民主派は、地区ソビエト第1回会期でのソビエト議長選挙において、1票差、文字通り薄氷の思いで共産党候補を破ったのである(64)。このような政治的な力関係の違いは、両地区の社会的な構成のほかに歴史的な背景があるようだ。リヴィウ州の北部・西部はカルパート山脈にかかる森林地帯であり、第二次世界大戦に前後しては、ウクライナ・パルチザン軍(ウパ)の根拠地であった。「風がふけば桶屋が儲かる」ではないが、「森が多ければウパが多く出た。ウパが多ければ、ウパの子孫が多い。ウパの子孫が多ければ反共が強い」という因果関係が成り立つのである。実際、ラデヒフ地区の党派別の戦争参加者(ヴェテラン)団体の構成員を比べてみると、「ウパ兄弟団」が約200人、「第二次世界大戦ヴェテラン連合」(全潮流の連合組織)が約300人であるのに対し、「大祖国戦争ヴェテラン連合」(親ソ系)がわずか約50人とのことである。しかもこの約50という数字は、元KGB職員など、ソ連の占領統治を支えたあらゆる組織のヴェテランが参加した上での数字なのである。かつてのウパの巣窟にわずか50人の親ソ・露語使用の老人が踏みとどまっている光景は、彼らの身の安全を案じずにはいられないようなものであるが、同地区国家行政府オスタプチュク長官によれば、「もし、この老人たちが旗を持って後進すれば、間違いなく衝突が起こる。しかし、いまのところ彼らは、さまざまな記念日に墓に集まって花を捧げる程度の活動しかしていない。その限りにおいては住民も寛容しており、また行政府にとっても地域の静謐が何よりも大切なのである」とのことである(65)。

「大祖国戦争」派のヴェテラン団体と並んで「カルパート山麓におけるモスクワの最後の砦」と呼ばれるのは、正教会モスクワ総主教座である。これはドロホブィチ地区においてとくに著しいようだが、カトリック、グレコ・カトリック、キエフ総主教座、モスクワ総主教座が四つ巴となった宗教紛争がくすぶり続いている。しば

 

 

 

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