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政府の経済委員会議長であった人物が経済・投資政策担当、?同じく獣医大出身で、ホルィニ体制下で州農工コンプレックス民営化センター長、フラディーと共にキエフに去ってその代理として働いていた人物が組織カードル担当、?1983年以来、ストゥルィー市中央病院の医師として勤め、ホルィニ体制下で州保険局カードル部長であった人物が社会政策担当(この人物は「ルフ」州組織の議長代理である)、?ストゥルィー地区出身で、旧体制下では州、共和国レベルのコムソモールと共産党の新聞の記者、新体制下では民族主義的州新聞『自由ウクライナ』の編集長として働き、ホルィニ体制下で一時、行政府の分析情報部長を勤めた人物が政治・法律問題担当、?リヴィウ総合技術大学出身の住宅・ガス・水道・給湯・暖房分野のエキスパートがエネルギー・住宅問題など担当。下線は、フラディーと人脈が形成された可能性のある経歴を示している。このほか、上記?の農業問題担当代理は農機会社の社長であったから、州長官代理(農工コンプレックス担当)時代のフラディーと関係が深かったことは容易に推察される。総じて、フラディーは、獣医大学閥、ストゥルィー閥、農業閥で幹部を固めつつも、テクノクラート型の「チーム」を作ったと言えよう(63)。たいへん残念なことだが、現時点で前任者ホルィニの幹部政策との比較を行う材料は揃っていない。

1994年の大統領選業・最高会議選挙・地方選挙は、政治危機の中で国の東西分極化を示す選挙であった。東部では共産党が息を吹き返し、西部では民族主義党派がいっそう強くなった。この勢いで、リヴィウ州ではホルィニという、いわばチョルノヴィルのミニチュア版が「州知事」に選ばれた。こののちリヴィウ州の民族民主派を凋落させたのは、皮肉にも、ウクライナ国家がそれなりに安定化したという事実だった。1993-94年の危機状況下ではハリチナ固有の「愛国バネ」が働いたが、独立ウクライナへの脅威がなくなると、「ところで独立して我々の生活はよくなったか」という当たり前の疑問を選挙民は呈し始めるのである。独立が既成事実となれば、「独立は何よりも尊い」というスローガンはもはや通用しない。こうして、イデオローグよりもテクノクラートの方が選挙民のニーズに応える指導者であるということになったのである。

 

5 地区レベルでの地方制度改革―ドロホブィチとラデヒフ

 

ほんらい、ウクライナの州以下のレベルにおける地方制度改革を分析するにあたっては、改革の結果、国家の地方機構とみなされるようになった地区と、地方自治体として認められた市町村の双方をみるのが筋である。しかし、本稿では、地区に視野を限定することにする。図表5および図表6を参照せよ。

ドロホブィチ地区はリヴィウ州南部に位置する、工業化が進んだ地区である。ド

 

 

 

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