た法では、州、地区ソビエトの側から行政府への統制が過大である、という主に四つの理由から拒否権を発動した。この後、最高会議は大きな譲歩をせず、しかも大統領拒否権を覆すだけの票(300票)を集めることもできなかったのに、5月21日、クチュマは法に署名し、ウクライナの地方自治法は発効した(52)。大統領のこのような譲歩は奇妙である。1994-95年に最高会議に攻勢をかけたときのような政治基盤をクチュマは既に失ってしまったのだろうか。それとも、対立は地方国家行政府法案をめぐる政治通程に持ち越されただけである、と考えるべきだろうか。
以上に見たように、新生ウクライナの地方制度改革をめぐる対抗は、州と地区の統治機関を自治体とするのか(分権化)、国家機関とするのか(集権化)をめぐって展開されてきた。1990年の分権化はソビエト位階制を破壊することによるウクライナの主権化を動機とし、1992年の集権化は独立国家としての一体性を確立することを動機としていた。1993年の政治危機から最高会議が反大統領姿勢を強めたことにより1994年の再分権化が引き起こされ、政治危機が収束しクチュマ体制が確立した結果、1995年以降の再集権化がもたらされた。とはいうものの、この集権化は、チェコ、ポーランド型の地方制度をウクライナに導入するところにまでは行かなかったのである。
本稿の分析は、露ウに共通する問題状況を明らかにした。それは、ロシアにおいて、西側のさまざまな国からつまみ食い的に借用された首長直接公選制、憲章主義、「アングロサクソン主義」(国家権能の自治体への委任に対する消極姿勢)などの一見民主的な諸要素が、「行政府党」の上意下達構造を補強するために用いられているのと同様、ウクライナにおいても、西欧的な地方自治論にしたがって国家機構と自治体を概念上峻別することが、実は、州・地区機構の国家化(つまり集権化)に貢献しており、逆に、同質的な統治機関の位階制としてのソビエト制を再現しようとする復古主義が、結果的には分権化を促進する効果を生んでいる