ら、民族主義者であらざるをえないのだ。ポーランド人はようやく静かになったが、ロシアは依然として帝国主義ナンバーワンだ」。「この土地の住民は、最初にポーランド人、次にオーストリア人、再びポーランド人、次にロシア人、ドイツ人、再びロシア人に支配されてきて、自分の生活の主人は自分であるという実感が持てないのである。請願のために指導者の部屋に入るにも贈賄しなければならないような生活に慣れきっていたのだ。だからこそ、1990年3月の選挙の結果、歴史上初めて、自分たちの代表で権力を形成したことの意味は大きいのだ」(18)。
ここでも触れられているように、ロシアや大ウクライナ諸州と比べて際だっているのは、ハリチナ3州の政治指導者が1990年3月の地方選挙の結果、ほぼ完全に入れ替わってしまったことである。したがって、「上からの資本主義革命」という、ポスト・ソビエト政治を説明する一般図式はここでは通用しない。
ソ連政府は、政治的に難しい地域には先進産業を植え付けて住民を懐柔する政策をしばしばとったが、ハリチナについてだけは、あまりにも国境に近く、安全保障上の問題があったためか、この政策は採用されなかった。そのため、ハリチナは経済的にウクライナで最も遅れた地域であり、財政面では東部工業州から「養ってもらう」関係にある。「養ってもらっている」地方が自分の文化的な優位を鼻にかけるのだから、東部工業州の住民は、ちょうどカナダのブリティシュ・コロンビア州民やアルバータ州民がケベック州民に対して抱くような感情をハリチナ人に対して抱いている。しかも、ハリチナ3州では、1990年二月革命の後、旧体制エリートを徹底してパージし、行政手腕よりも政治的純潔性を基準にして新幹部を採用する方針がとられたため、地域の経済の遅れがいっそう著しくなってしまった。こんにち、ハリチナは、失業率、企業非稼働率などの指標に照らしてウクライナ最悪の水準にある。ただ、社会主義に支配された期間が相対的に短いためか、住民の企業家精神は旺盛で、サービス業、観光業などにはみるべきものがある。
ハリチナが貧しい地方であるといっても、住民の文化水準が高く、景観の美化に力が注がれているためか、それはさほど感じられない。第二次世界大戦に至るまで中欧文明圏に属していたため、ロシアや大ウクライナには見られない石造りの美しい城があちこちにある。住民は信心深く、小さな村が分不相応な立派な教会を保持しているため、農村をバスで旅していて視界から教会が消えるということがまずない。ハリチナの中心市であるリヴィウは都市の格からいってクラコウやワルシャワと同レベルにあるのだから(19)魅力的なのは当然としても、農村部に出てさえ豊かな丘陵、森林、湖沼に魅了される。まさに真珠のようにラブリーな土地であり、たいして資源もないこの地が三度の世界大戦における最大の係争地のひとつであったことにも納得させられるのである。