権威を認めながら正教の儀式を多く残している点が特徴である。18世紀以前はドニエプル川までを勢力圏としていたが、ポーランド分割以後、ロシア政府が徹底的に弾圧したため、こんにちではハリチナでしか勢力を保っていない。独立教会はロシア革命時に、キエフ総主教座はソ連崩壊時に、それぞれウクライナ正教組織のロシア正教会からの独立を掲げて生まれた宗派である。独立教会は、ソ連政府の徹底した弾圧を受けた後はポーランド領ハリチナを根拠として、第二次世界大戦後は西側のウクライナ人ディアスポラのコミュニティのみを根拠として、憎き共産主義の崩壊までを生き延びた。ともにウクライナの独立を前提とした正教会として、キエフ総司教座と独立教会は共通性が高く、実際に両派統一への動きもあるが、その反面、独立教会側に先輩意識があるようである。
レオニード・クラフチュク大統領時代には、ウクライナ主義的な3派(キエフ総主教座、独立教会、グレコ・カトリック)を露骨に応援する政策がとられたが、教会は国家に従属すべきであるという正教固有の考え方に反して、モスクワ総主教座が意外な生命力を発揮した。こんにちでもキエフはもとよりハリチナにさえモスクワ総主教座系の教会が案外多いことに驚かされる。たしかに、とくに年輩の信者にとっては、「ウクライナが独立したから宗旨替えせよ」と言われても、おいそれと従えるものではない。
以上の歴史から明らかなように、ウクライナは、左岸ウクライナ、南ウクライナ、右岸ウクライナ、ハリチナの四つの地域に大別される。このうち筆者が現地調査の対象としたのは、ハリチナ3州(リヴィウ、イワノ-フランコ、テルノピリ)のうちのひとつ、リヴィウ州である。前述の通り、ここは現代ウクライナ民族主義の中心地であり、「アメリカ合衆国にとってのニューハンプシャー州、ロシア連邦にとつてのサマーラ州」(国全体の政治状況を代表する州)ではない。では、ハリチナが「ウクライナのピエモンテ」であるかと言えば、それも怪しい。この類比は、オーストリア支配下のハリチナでウクライナ民族運動が相対的に寛容されていた事実を一面的に強調するものであるように思われる。ハリチナの民族主義は、ハリチナ人が最も長くポーランド人、ユダヤ人の搾取下におかれてきたこと、また、ソ連においては連邦で最も厳しい占領体制の下におかれてきたことから発生した、いわば負の民族主義、憎悪の民族主義としての側面を持つのであって、それを(たしかに国を統一するだけの実力を秘めていた)サルジニア王国に擬するのは適切ではない(17)。もちろん、負の民族主義、憎悪の民族主義とここでいうのは、あくまで歴史的にそのように形成されてきたという事実を指すのであって、筆者の価値判断を含むものではない。リヴィウ州ドロホブィチ地区国家行政府のエブヘン・ホミツィキー副長官は次のように述べた。「日本やフランスに民族主義はなかろう。我々は敵がいるか