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い)。

(18) ヤルツエフ 97,p.119;『1996年ロシア連邦大統領選挙:選挙統計』p.232。

(19) 藤本 97、pp.8-10。

(20) ヤルツエフ 97, pp.119-120。

(21) 詳しくは次を参照:岩下 97;藤本 97,pp.11-12。

(22) もうひとつの背景としては、中国政府がウラジオストクに領事館を開いた場合、中国側はロシア政府がハルビンに領事館を開くことを認めねばならず、その場合、ハルビンに多い革命前ロシア人資産の所有権問題が浮上することがあげられている(インタビュー:松崎潔/在ウラジオストク日本領事、12月19日、ウラジオストク市)。

(23) Duma,No.24(1997),p.3に掲載された、ロシア共産党沿海地方委員会第一書記V.V.グリシュコーフ(後出)へのインタビュー参照。

(24) インタビュー:アレクセンコ(Aleksenko)、ボリス・アレクサンドロヴィチ/連邦議会下院議員E・D・ボリシャコフの助手、12月24日、ウラジオストク市。

(25) インタビュー:グリシュコーフ(Grishukov)、ウラヂーミル・ヴィターリエヴィチ/連邦議会下院議員、ロシア共産党沿海地方委員会第一書記、12月25日、ウラジオストク市。

(26) 同上、グリシュコーフからの聞き取り。

(27) 経歴は『沿海地方における政治的エリート』人物番号112を参照。

(28) 1991年までは、スヴェルドロフスク州の州都の名称はスヴェルドロフスクであったが、8月クーデター後にこの都市が革命前の名称エカテリンブルクに回帰したことから、この州では州の名称と州都の名称が異なることになった。

(29) 荒井 ベロフ 96,pp.150-152。

(30) 1997年11月現在、連邦議会で準備されている税法典は、地方自治体の自主財源を強化する方向であるので、その採択後はスヴェルドロアスク州型の域内トランスフェルト制は改変を余儀なくされるようである。

(31) 小森田 98。

(32) 1997年夏、クライ行政府はウラジオストク市内の医療労働者への給与を特別に支給したが、その際、(クライにとつては信用できない)市庁を通じてではなく病院ごとに直接に支払った。つまり、この給与支給は、クライからウラジオストク市への補助金という形を取らず、クライ財政の直接の支出としてなされた(インタビュー:シェレメチェフ(Sheremet'ev)、ニコライ・ステパノヴィチ/連邦出納庁沿海地方局長代理、12月26日、ウラジオストク市)。

(33) ウラジオストクの道路補修状況は極端に悪いが、それでもなお、道略工事が市長選挙に向けたポピュリスト的政策になりうるということは、日本の読者には奇異に思われるかも知れない。しかし、こんにちのロシアの経済、財政状況では福祉,医療・教育などに予算を振り向けても砂の上に水を撒くようなものであり、いずれにせよ住民は不満である。ところが道路補修をはじめとするまちの景観美化に力を注げば、相対的に少ない歳出で住民の心理に与える効果は大きい。この「景観美化一点突破戦術」とでも呼ぶべき手法を最初に採用したのは、有名な民主派人士でもあるタンボフ市長のコヴァリ(1992年市長に任命)であった。コヴアリは、ロシアで最も赤い州の州都市長になった自分が親共産党勢力に厳しく包囲されていること、そして黒土地帯の中心にあるタンボフが見た目の悪い、汚れやすいまちであることを逆手にとつて、まさに逆転の発想で「景観美化一点突破戦術」を思いついたのである。この戦術は、その後、モスクワ市長ルシュコーフが模倣することによって全国化した。筆者のウラジオストク滞在中は、文字通り深夜も祝日も道路補修の槌音が絶えなかった。チェレプコーフが「景観美化一点突破戦術」を模倣することは滑稽なパラドクスをもたらした。というのは、彼が最初に市長に選ばれた1993年6月に、次のような選挙公報を掲げていたからである。「多くの人が、全市的問題を解決するためのお金をどこで見つけるのかと訊ねる。湿った上の上にアスファルトを敷くときに、お金はどぶに捨てられているのである」(Utro Rossii,3 V 93,p.2)。その後が、道路補修を市

 

 

 

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