(4) 近代における文化人の関わり
榛名山は万葉の昔から歌に詠まれるほど文芸と深く関わってきたが、近代においても榛名山を多くの文人が訪れ、俳句、短歌、詩、紀行文なども多く残されている。
徳富蘆花は、明治31年(1898年)に訪れた伊香保を舞台に、代表作「不如帰」を発表し、伊香保の名が全国に広く知れ渡った。蘆花は、自らこの地を「生の策源地」と称して、夫人をともなって度々伊香保を訪れている。
竹久夢二は、大正8年(1919年)に初めて榛名湖を訪れ、その風光にひかれた夢二はその後度々足を運ぶようになった。昭和5年(1980年)には産業美術の振興を図るための拠点づくりをしようと、「榛名山美術研究所」宣言文を発表し、榛名湖畔にアトリエを建設した。
土屋文明は、明治23年(1890年)榛名山のふもと、上郊村(現在の群馬町)に生まれ少年期までを過ごし、上京後多くの歌集を発表している。昭和20年(1945年)吾妻郡原町(現在の吾妻町)への疎開で、榛名山を背にした静かな自然の中で畑を耕す生活の中から歌集「山下水」が生まれた。また、歌集「青南集」の一首「青き上に榛名を永久の幻に出でて帰らぬ我のみにあらじ」など、故郷を歌った歌が多く残されている。
彼らの榛名山への思いから、榛名山の自然やふもとの人々の生活を「日本の心のふるさと」として想起させることができる。
3 社会・産業条件
(1) 人口
榛名山麓を構成する10市町村の総人口は、平成7年現在で約17万8,000人で、15年前に比べ約1万7,000人(3.5%)が増加している。人口の多くは山麓の東南部に集中しており、人口増加も東南部の前橋市や高崎市などの市街地に近い地域で著しい。
年齢別人口比率では、年少人口が減少する一方で老年人口が増加しており、生産人口は横ばい状態にある。