公共性と歴史との関わり
まず、基調講演とそれに続く対談の中で、公の問題に言及するうえで、社会あるいは国家の役割に触れた意見が出された。
この一連のやりとりを受けて、公共性とはそもそも一体何を基準とするのかという切り口から「宗教的イデオロギーに示される場合や、デモクラシーを信じて社会の多数派の意見がその基準を指し示すとする、現在多くの国がとろうとしているものなど、四種類程度の考え方が提示できるが、その中で最も信頼性が置けるものとして、″長い持続した歴史を通じての方法の中には、ひそかにせよ、その国民の知恵が含まれている″とする、いわばヒストリカル・ウィズダム(historical wisdom)という考え方が最後に残るのではないか」との指摘がなされ、公共性と歴史との関わりという考え方が示された。
公共性と国家
また、公共性を考えるうえで国家との関連性をどのようにとらえるべきかといった観点から、「現在はボーダレス、グローバルという言葉が多く使われているが、公共性の基準が歴史につながっているとすると、歴史はそれを創りだす人々の国民性との関係を抜きには考えられないので、いわゆる国民国家は、乗り越え不可能なものとしてあるのではないか。その枠組みを捨ててしまうと、公共性とは何かということ自体がおぼろげになってしまう」といった指摘があった。それに対して「国民国家という概念は一九世紀のヨーロッパの政治的手段である。現在は、欧州連合のようなより大きな単位への統合がある一方で、ローカルに分散する方向もある。結局国民国家は何なのかというのは、将来に向かって人々がお互いに関係を持ち合うか否かによって方向が違ってくる。今我々の知っている国民国家は、より大きな現実の問題に対応するには小さ過ぎる。そしてまた、小さなものに対して大き過ぎるということが言える」といった意見が出された。
個が開いて公共ヘ―民間における公共の概念
以上のような国家を軸にした公共性に対して、民間の立場からの「公共」についての考え方が示された。「まず集団の中に入る以前に、一人一人が個として自信があるということが大切である。ボランティアあるいは民間の公共というのは、その個がスタートになるものだ。特定のことに非常にこだわる人たちが民間の公共活動、ボランティア活動を行っている傾向が強い。まず最初に個が元気で、その一人一人の個性が開くと公共的になってくるということが考えられるのではないか。たとえば絵の好きな人が、自分のコレクションを自分以外の人にも見てもらおうと