
さらに、こうした社会経済の構造転換にまつわる問題意識とは別に、福利厚生施設の拡充、就職情報の全国的ネットワークによるリアルタイムの情報収集を強く望んでいる姿をみてとれる。 どうやら個人は、地域開発が経済開発ではなく社会開発を第一義とする在り方を求め、社会的インフラの整備と相まった、生活の質的拡充に結びつく新たな社会的需要の喚起を要請する考えをにじませているように思われる。 最後に、生活基盤の拡充と地域性豊かな産業活性化への強い期待と要望について、その実施への道筋を集約的にいいかえれば産業構造の高度化といえるのではあるまいか。Uターン希望者の受け皿としての就職先が製造業中心でしかも土木・建築が多い現状では、問題の解決につながらないと考えるのは筆者だけだろうか。 さて、実際のUターンに当っては、社会全体や、公的機関等への改善要望とは別に、私生活上の問題が横たわっていることを看過すべきではあるまい。家族を含めたライフステージ、職業生活に大きな変化を及ぼすだけに慎重にならざるをえないのである。そこで次節では、その辺りの実情を現場取材の目からとらえる。 (齊藤幹雄) 第2節 情報誌編集からみたUターン希望者の期待と悩み
−妻が決めるUターン− ブームが去り、実像が見えてきた 91年のバブル崩壊直後から、一種のブームとしてのUターン志向現象が起きていた。媒体としてはそれまで、宝島社の『田舎暮らしの本』や一部のアウトドア関連雑誌の別冊特集くらいしか扱われていなかったUターンが、92年11月にリクルートの週刊『ビーイング』が増刊号のかたちでスタート。そして「日経Y0U TURN」とラインナップも揃い、「本格的なUターン時代の到来」とマスコミなどによって派手に取り扱われた。経済状況の低迷から脱却し、豊かな生活を実現する決め手として、Uターンが華々しく紹介されたのだ。 確かに、調査をかけてみると、都会に働くサラリーマン、OLのほぼ7割前後が「可能性があればUターンしてみたい」と答える。その傾向は今日も基本的には変わっていない。ただし、「仕事が見つかれば」「収入がダウンしなければ」など、主に経済的な条件がしっかりつけられてもいた。 当時、労働省の職安を通じてUターンした人は年間ほぼ6000人で横バイ状態。実際には、縁故やまったく独自に仕事先を見つけ、転地する人がかなりいることが取材などを通じて確認できたため、感覚的には2〜3万人くらいがUターンの実質的な規模と考えられた。 決して大きくはないが、潜在的に莫大な志向層がいる大都会で、十分商品として力を持ち得ると判断、創刊に踏み切ったわけだが、思惑どおり、販売部数は当初、堅調に推移した。ところが…
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