年ジュネーブ協定」と呼ぶ)。この結果、ヴィエトナムは北緯17度線に沿う暫定軍事境界線が設定され、統一のための総選挙を1956年に実施することが定められた。
しかし、南ヴィエトナムは暫定的南北分割に反対し、米国は統一には南ヴィエトナムの同意が必要であることと選挙は国際監視下で行うことなどを主張して最終宣言に参加しなかった。この結果、ヴィエトミン軍は北部へ、フランス・ヴィエトナム国軍は南部に集結し、結果的にこの暫定軍事境界線が事実上の領土境界となった。
e.南北ヴィエトナムの対立と戦争激化、
北ヴィエトナムでは、土地改革等の社会主義改造、再建、復興等に着手し、国内支配の確立を進めた。
南ヴィエトナムでは、1955年バオダイ帝が退位し、カトリックで反共民族主義のゴー・ディン・ジェムを大統領とするヴィエトナム共和国に変わり、政権強化と反共政策を強硬に推進し独裁的傾向を強めた。
ジュネーブ協定は、1955年に、南北両ヴィエトナム間で「56年総選挙」実施のための協議を行うことを定めており、北ヴィエトナム側の呼びかけにもかかわらず、南ヴィエトナムは協定に調印していないこと、共産政権下では自由選挙は実施し得ないこと等を理由に拒否し、総選挙は実現しなかった。
米国は共産主義に対する防衛の観点からフランスに代わり南ヴィエトナムヘの関与を強めていった。他方、仏教徒や民主主義政治家を中心とする反ジェム・反米運動が盛り上がり、北ヴィエトナム支援ゲリラ活動が活発化し、1960年には南ヴィエトナム民族解放戦線が結成され反政府運動が激しくなり、1963年にジェム政権は崩壊し、その後もクーデターが等で政情が混乱し、軍事情勢悪化とともに1965年米国は本格的な北爆と南ヴィエトナムヘの地上部隊を投入したが、1968年テト攻勢により共産軍が米国大使館を占拠するにおよび北ヴィエトナムと和平交渉を始め、ニクソン大統領は「戦争のヴィエトナム化」と段階的撤退を決定した。
f.和平協定と南ヴィエトナムの崩壊、南北ヴィエトナムの統一
1973年いたり、「ヴィエトナムにおける戦争の終結および平和の回復に関する協定(パリ和平協定)」が締結され、停戦、米・北ヴィエトナム軍の撤退、和解和合政府樹立・総選挙に向けての南ヴィエトナム当事者間の話し合いが決められたが、1975年4月ヴィエトナム共和国は崩壊した。翌1976年、統一選挙を経て7月南北は統一され、ヴィエトナム社会主義共和国が新たに発足した。