2 歴史
フィリピンは、歴史的に内外の影響を受け、多くの変遷を経た。スペイン及び米国による植民地時代、共和国時代、独裁体制期、さらには現在の再民主化の時代それぞれに特徴が見られる。その結果、国の政治・経済体制、さらには社会の構造が複合的な様相を呈し、自主的な発展が困難な状況で推移してきた。 (1)国の起源と黎明期−バランガイ(barangay)社会へ− フィリピン群島で最初に統一的な政治支配が成立したのは、5世紀の中頃、スールー諸島の中心地であったホロ島にスルタンのアブー・バクルが支配するスールー王国であったとされる。地域住民は、バランガイと呼ばれる自治管理を行う小規模な集団を形成し、大部分の土地を共有していた。バランガイは、貴族、公民、農奴及び奴隷に階層化され、通常30から100程度の家族から構成されていた。交通の要衝(例えば、ルソン島のマニラ湾沿岸など)では2千人以上、ときには1万人近い大規模な集団も見られた。 (2)スペイン統治期−植民地時代の始まり− スペインは1565年から侵略を開始し、点在する群島を強制的に融合した。1571年にはマニラをフィリピン支配の中心地とし、ルソン島、ビサヤ諸島などをその支配下にしていった。スペインは、植民地の開発に当たり、州、町、村(パリオ又はバランガイ)の3段階からなる地方行政制度を敷き、マニラの中央政庁と州政府までを直接支配し、それ以下はフィリピン人の手に委ねることとした。町村のレベルは、かつてのバランガイ社会の首長をその支配の任に当たらせた。 さらに、スペインは政教一致の支配体制を敷いた。強制的に地域住民をローマ・カトリックに改宗させ、従前の共同所有地を国王、教会などの所有地とし、また、教会組織の小教区を基本的な行政単位に一致させた。このため、町役場、教会、広場が町を形成するシンボルとなった。教区の司祭にはスペイン人修道会士が任命され、この修道会士は町以下の地域社会に存在する唯一のスペイン人として、地域住民の精神生活のみならず、統治行政面でも大きな権限をふるった。 (3)米国統治期−第2次植民地時代へ− 1840年代後半に入り、フィリピンでは植民地支配への抵抗運動が高まった。米国は革命軍を支援するために事態に介入し、1898年のパリ条約によってフィリピンを獲得した。米国は、フィリピンに民主的な制度を導入し、アジアでの西側民主主義のショーケースにしようと試みた。植民地統合の合法的な方策として、公的教育を積極的に推進しつつ、特権階級を保護して社会構造を支配する政策を採った。また、合衆国外最大の軍事基地を置き、天然資源の開拓や特権による公益事業の認可などを行った。
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