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は、引き続きブミプトラ政策を継続し、経済成長を押し進めていくためには、集団の利益を個人の利益に優先させる「アジア的価値」を重視することが必要であり、そのために、日本や韓国の成功に見習うべきであるとするルックイースト政策を提唱した。また、「日本株式会社」に習って、マレーシア株式会社構想を打ち上げ、民間部門と公務部門の協力を強調し、肥大化した政府の民営化を進めていった。さらに、1991年には「WAWASAN2020(VISION2020)」を発表し、西暦2020年までにマレーシアを先進国入りさせるという目標を掲げ、経済成長のための具体的な政策はもとより、先進国としての理想的な社会の在り方を提示し、新たな挑戦を開始した。
外交面においては、「アジア的価値」を掲げアメリカを中心とした西側先進国の人権外交に対して批判的な立場をとるとともに、開発途上国の「開発の権利」を主張している。また、1990年には「東アジア経済協議体」(East Asian Economic Caucus:EAEC)構想を提唱し、アジア太平洋諸国における経済ブロック化の検討を各国に呼びかけている。

 

5 経済

世界銀行の世界開発報告によれば、1994年のマレーシアの一人当りのGNPは、US$3480であり、タイのUS$2410、フィリピンのUS$950、インドネシアのUS$880に比較して高い水準にあり、アセアンの中でブルネイを除けば、シンガポールに続く高所得国である。実質国内総生産は、1965年から80年の間に平均714%、1980年から90年の間に平均5.2%と、高度経済成長を実現してきた。
独立後から1970年頃までは、一次産品の輸出が経済成長の原動力となった。1960年代には錫と天然ゴムだけで輸出全体の80%を占めていたが、さらに1970年代半ばからはパームオイル・原油・木材が、1980年代に入ると液化天然ガスがこれらに加わり、貿易収支は常に黒字を維持してきた。
この貿易収支の黒字は、1970年代以降の工業化のための資本財や中間財を、国際収支に制約されることなく輸入することを可能とした。マレーシアの工業化の特色は、その国内市場の規模が小さいことから、輸出志向型とならざるを得ない点にある。1970年代には電気・電子産業を中心とした工業化を実現し、半導体・ICの輸出はアメリカ・日本に次いで第3位となった。また、1980年代前半には、重工業化政策を打ち出し、国産車の生産(プロトン・サガ)を開始した。
1980年代後半の日本・台湾・韓国の為替レート高によって、これらの国々からの直接投資が急激に伸びると、マレーシアの工業化は一挙に加速する。経済成長率は、1988年から92年にかけて連続して年9%台を記録し、国内総生産に占める製造業比率は、1987年以降農業を上回るようになった。また、1980年には20%台であった工業品の輸出シェアは、1980

 

 

 

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