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合構想」を発表した。その内容は、海峡植民地、マラヤ連合州、非マラヤ連合州の3つの異なった行政組織を中央集権化し、総督が管理し、また、マラヤに生まれた全てのエスニックグループに対して無条件に市民権を与えるというものであった。このマラヤ連合案に対しては、マレー人の間に激しい反対運動が起こり、結局1948年、スルタンの権限とマレー人の特権を認める内容で、マレー半島の9つの州及び、マラッカ、ペナンから成るマラヤ連邦が成立した。マラヤ連邦は1957年にはイギリスによって独立が承認され、さらに1963年トウンク・アブドゥル・ラーマン首相はマラヤに、シンガポール、サバ、サラワクを統合してマレーシア連邦を結成する。しかし、シンガポールは、経済格差や民族構成の違い等の諸事情により、1965年8月にマレーシア連邦から脱退し、ここに、現在のマレーシア連邦の姿ができあがった。

 

4 政治
(1)基本的枠組み
1946年のイギリスによるマラヤ連合案に対する激しい反対運動の中で、マレー人の優位を守るべく統一マレー人国民組織(United Malays National Organization:UMNO)が結成された。一方、同年、インド人はマラヤインド人会(Malayan Indian Congress:MIC)を、また、華僑は1948年に馬華公会(Malayan Chinese Association:MCA)をそれぞれ結成した。1955年に始めて行われた連邦評議会の選挙では、上記の3政党がマラヤ連合党を形成し、52議席中51議席をとり(UMN034,MCA15,MIC2)勝利を収めた。この、エスニックグループをそれぞれべースとする政党のスタイルと、UMNOを中心としてMCAとMICをジュニアパートナーとする政権政党の枠組みは、今日まで基本的に維持されている。

 

(2)5月13日事件とブミプトラ政策
1969年5月13日、下院議員選挙の結果を祝う野党系華人青年の政治デモと、UMNO青年部のデモが衝突し、死者196人、負傷者439人を出した人種対立事件が発生した。この事件を契機に、華人・インド人との民族の融和を基本姿勢とするラーマン首相は、マレー人の優位の強化を主張するマハティールらUMNO内の急進派の激しい批判にさらされ、1970年に辞任し、ラザク副首相が第2代首相となった。そして、経済成長の促進と民族間の経済的不平等の除去を掲げた「新経済政策」が発表された。この中では、マレー人の商工業への参入促進のために様々な施策が掲げられ(ブミプトラ政策)、ラーマンの唱えた民族間の協調をテーゼとする政治から、マレー人優先の政治への転換が行われ、それは現在まで続いている。

 

(3)マハティール政権と「WAWASAN 2020」
1981年に、フセイン首相の後を受けて、マハティールが第4代首相となった。彼

 

 

 

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