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という人口7,000万人構想を提唱し、出産手当や税制改正などの諸施策が導入された。公用語はマレー語であるが、華人の間では、広東語、福建語といった方言あるいは共通中国語であるマンダリンが、また、インド人の間ではタミール語が話されている。また、火語も広く通用する。
マレー人は99%がイスラム教徒であるが、華人は仏教あるいは儒教・道教を、インド人はヒンドゥー教(約84%)の他、イスラム教やシーク教をそれぞれ信仰している。また、華人・インド系人の間ではキリスト教徒も少なからず存在する。
従来、マレー人は農村部を中心に農業、漁業に従事するか、あるいは公務員として働き、中国人は都市部に住み、商業や鉱業等の経済活動に従事し、さらにインド人は主にゴムやパームオイルのプランテーションに従事していると説明されてきたが、近年急速に進む工業化と都市化の中で、かかる図式は変化を見せている。

 

3 歴史
(1)マラッカ王国以前−インドの影響
マレー半島はインドと中国の間を行きかう交通・通商の要所として発展してきた。中国人は、マレー半島について古くから断片的な記録を残しているが、この地域に最も早く強い影響を与えたのはインド人とヒンドゥー教文化であると考えられている。マレー語には、サンスクリットからの借用語が多く、また、マレーの伝統的な法律には慣習法ともイスラム法とも異なるヒンドゥー的要素がみられるといわれ、また、農村部(カンポン)には、今でもインドの伝説「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」をテーマにした影絵芝居が演じられている等、ヒンドゥー文化の影響を現在に見い出すことは容易である。

 

(2)マラッカ王国とポルトガル・オランダの占領
14世紀末期にマラッカ地方を中心にマラッカ王国が起こった。創始者で初代国王のパラメスワラは明の永楽帝に朝貢し、この勢力を後ろ楯にジャワやシャムの勢力と対抗した。15世紀始めに、王国においてイスラム教の普及が始まったとされ、以後マラッカは、東南アジアにおけるイスラム教の中心、マレー文化の中心になっていく。また、この時代にマラッカは急速に西アジア、インド、東南アジア諸国、中国を結ぶ海上貿易の中継ぎ港として発展していった。当時のマラッカの繁栄振りは、「少なくとも84の外国語が話され、4,000人の外国人商人が住んでいた」との記録からも想像に難くない。
マラッカ王国は1511年に、ムスリム商人の貿易独占を破るべく進出してきたポルトガルによって占領される。王国の首都を奪われたマラッカ王家は、その後ジョホールに移り(ジョホール王国)マラッカ奪回のための努力を続けるが、果たせぬうちにマ

 

 

 

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