稽古断想−ひょっとしたら岩松氏はチェーホフ?−/藤原新平
1977年モスフイルム作品に〔機械じかけのピアノのための未完成の戯曲〕という映画がある。チェーホフの未完成戯曲〔プラトーノフ〕を映像化したもので、日本でも評判になった。ミハルコフ監督がチェーホフの描いた当時の帝政ロシア末期の雰囲気をみごとに描いたとされている。主人公のプラトーノフを演じたアレキサンドル・カリャーギンの演技は当時のどうしようもない無気力なインテリを形象化したと評価された。
ロシア帝政末期のある夏の日結婚披露宴に近隣の地主や、貴族・医者などが招待される。その中に小学校教師のプラトーノフがいる。7年前大学生であったころに初めて恋した女がこの邸の花嫁であった。シニカルな議論、二人の密会は登場人物たちの過去を引きずりだして、当時の時代の雰囲気を感じさせてくる。過ぎた青春への悔恨と現在の無為に彼は妻の止めるのも聞かず川に身を投げるが浅すぎて死ねない。短い夜が明ける。妻と肩を抱き合いながら邸に戻るプラトーノフ。登場人物のそれぞれの波紋は納まり、何も起こらず朝がくる。ベッドの中で女がつぶやく「すべて昔どおりね」。
当人たちはまじめで賢明に生きてるはずが滑稽に愚かに見える。シリアスに描きながらコミカルで皮肉な諧謔諸性。ストーリーでなく人間の存在そのものが劇であるという劇。
喫茶店でなにげなくガラス窓の外の雑踏を眺めているとほとんど飽きない。いろいろな人がいるというだけでなく一人一人が実に個性的で、それぞれの動きがそれぞれの生活を感じさせている。それがどんな生活かわからないけれども確かな存在感としてこちらに伝わってくる。何を話しているのか聞こえなくてもその相手の反応やら表情によって話の内容までさらに言えば心の中まで見えてくるように思えたりする。多分それはほとんど正解ではないだろうがその誤解もまたその人への理解の一つとして許されるような気がする。
岩松了氏の作品にわたしは窓の外から通行人や街頭で立ち話をしている人たちの姿を見るような奇妙な楽しさを味わう。一見曖味に見えてそばに近寄り覗いて見るとそこにそのひとたちの生活が確かな存在として劇そのものであることを我々に知らせてくれる。この劇は他人事ではない。生活とは、つまり生きているということはこうした些事の累積であり、果てしなく物と人との関係積であることも分からせてくれる。
この作品の最後の所に、死んだ恋人の遺影の前で男が「……ちくしょう……いつまでつづくんだ……」というせりふがあるがこれは前述のチェーホフの映画の最後のせりふ「すべて昔とおりね」というせりふと重ね合わせたくなる。同じ言葉ではないが言葉の背後にあるものは同じなのだ。大きなものから生まれるとは限らない。どうということもないという意味で日常がいささか軽く見られているが、日常に劇はある。
この〔四人姉妹〕は18人の男女が窓の外で立ち話をしている。何を話しているのはわからないように見えるが次第に見えてくるものがある。18人それぞれが勝手にしゃべっているように見えるが、一本の蔓を引っ張ると地中からずるずる芋が引き出されるようにこれらの人々の劇が見えてくるように作られている。〔機械じかけのピアノのための未完成の戯曲〕もそんな共通点があるように思える。岩松作品には確かにチェーホフに合い通ずるところがある。こちらの思いこみばかりではないだろう。作者はたとえチェーホフにせよ似ているといわれるのは心外かもしれないが、わたしにはそう見えるのだ。
〔機械じかけのピアノのための未完成の戯曲〕を出演者に見せよう。若松作品の演技について参考になるだろうから。
〈演出家〉
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