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基調講演
『旅行を通して観光のあり方を考える』
自幡洋三郎
国際日本文化研究センター教授
1.旅と旅行
「旅行」あるいは「観光」を英語に訳しますと、そのイメージにあまり差がないのではないかと思うのですが、日本語では受け取る感じが変わります。「旅行」のほうがまだ市民権があるようでして、観光というと、今日も「観光」のシンポジウムに出席するというと職場で、立派なことをやっているな、頑張ってこいといわれた方がどれくらいいるか、ちょっと不安になるところなのです。とはいえ、「旅行」という言葉自身も少しイメージが軽いといいますか、印象が立派な事業というところから少し遠い感覚にあるように思うのです。
私が最近書きました本のタイトルは、『旅行ノススメ』ですが、出版社からは「旅」にしてもらうと売れるのですがといわれました。人間が本を買って読むのは、自分自身の内面にいろいろな間題をもっているときに本を通じて理解をするというか、いろいろな他の人たちの言葉を噛みしめたい、受け取りたいからだろうと思うのです。それで、心の内面を表している印象のある「旅」をタイトルにしないかということだったのです。けれど、私が書いた趣旨は「旅行」や「観光」につきまとっているそれをおとしめるようなイメージを間題にしたかったからです。われわれがどうも建前ばかりを中心として本当に人生で、生きていくうえで大事なことは何であるかを忘れているのではないか。旅行は自分にとって大事な行為なのに、軽くみすぎているのではないかというので、あえて『旅行ノススメ』にしたのです。
明治5〜9年に福沢諭吉が『学問ノススメ』という本を書きまして、それにも少しあやかっています。つまり、あの頃の国民にすすめるべきテーマというのは学問だったが、今は旅行ではないかという意図が含まれています。もちろん福沢諭吉の「学問」というのは今よりもっと幅広い意味がありまして、単に机に向かってガリガリとやるというような学問ではなかったわけですが、しかし、百何十年経って、私はわれわれにとっての学問といいますか、教養は「旅行」にあるというぐらいの意味で『旅行ノススメ』というタイトルにしたわけです。
旅に比べて旅行のイメージは悪い、少し印象が軽いのは、いったいなぜか。言葉の語源から、まず考えてみたいと思います。「旅」と「旅行」は違うというように私は考えているのです。「旅」の語源にはいろいろ説がありまして、民俗学者の柳田国男が説いたのは、「タビ」は「タベ」という、これは「クダサレ」という意味で、要するに「物貰ひ」だということです。では、なぜ「物貰ひ」をするか。とにかく農耕社会以来定住して暮らすというのが人間の基本的な姿勢である、ふらふら移動している人間というのはどうも信用できないというわけで、定住というのが一つの人間の正しいあり方であるということがあったと思うのです。そのときに、ものをもらいながら移動する「タベタベ」という交遊があり、それが「タビ」の語源になったという説なのです。
つまり「旅」も、そういうふうにスタートは必ずしも素晴らしいイメージではないわけですが、その同じ柳田国男が、旅というのは実際「ういもの、つらいもの」であったといっているのです。これも旅行とか観光のことに詳しい方はもうご存じだと思いますが、外国語の旅の語源は英語のトラブルもフランス語のトラバーユも、労働とか労苦とかという、苦しみとか働くことというところから出てきているわけです。ですから、基本的に旅は苦労なのだということです。その苦労のなかに、人間はいろいろ学ぶことがあるので、これは人生にとって非常に大事であるということになったのです。
例えば、「かわいい子には旅をさせよ」という。ところが「かわいい子には旅行をさせよ」となると、それは遊ばせているのではないか、しっかり育たないのではないかと心配になると思うのです。ましてや、「かわいい子に観光をさせよ」などというのは、いってはいけないといいますか、そういう雰囲気があるだろうと思うのです。
要するに、旅は「ういもの、つらいもの」、苦労である。それに対して旅行というのは、やはり軽いというか、明るい、楽しみに位置づけられると思うのです。柳田国男は明治の末ごろからずっと戦後も評論活動をしましたが、大変おもしろいことに、私が読んでいる限りでは、昭和の前後、大正末から昭和にかけて旅行に関することを割にたくさん書いているのです。その文章をみますと、旅はういもの、つらいものであった、新しい楽しみの旅行が始まったのはつい最近だ、という文章

 

 

 

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