連邦の安定性と統一性に仕える、一つの首府の必要性という点では、意見の一致が見られたことになるが、具体的な選定については、次に見るように更なる、そしてあまりに露骨な妥協を必要とすることとなった。
1789年、連邦議会下院は、ボルチモア、次いでペンシルベニア州のライツフェリーを提案したが、そのいずれも(下院と異なり)人口にかかわりなく各州2名の議員から構成される上院により拒否された。デッド・ロックに見えたこの問題は、戦争によって生じた多額の「州公債の連邦引受け」という、連邦がかかえた、より実利的な問題とのリンクによって、解消されることとなる。
すなわち、中央集権による工業育成を青写真として持った連邦財務長官アレクサンダー・ハミルトンによる、公信用の創設をめざした州公債の連邦引受け法の提案は、すでに自力で償還を終え、あるいは僅かな負債しかない、南部諸州の猛反対にあった(併せて提案された連邦債償還法についても、それによって当面の利益を得るのはもっぱら北部の投機家であった)。ちなみに2150万ドルを限度とする債務引受けのうち、ヴァージニア州の分は35万ドルにすぎなかった。
南部ヴァージニアの指導者マディソンをこの件で敵にまわしてしまったハミルトンは、もう一人のヴァージニア指導者であり、連邦国務長官でもあったジェファーソンとの間で妥協案を模索した。ジェファーソンの言によれば、州公債の連邦引受け法は、南部諸州にとって「ひどく苦い薬」であって、それ「少しく和らげる処方」が必要であり、具体的には、連邦首府を当初10年フィラデルフィア、その後恒久的にポトマック河畔のジョージタウンに固定するという「鎮静剤」を、苦い薬による興奮を和らげるべく用いる点で、二人は一致を見たのである(7)−最も、いわゆるdimer party trade[ハミルトンとマディソンの間の和解を図った、ジェファーソン主催の晩餐会でこの取引がなされたとする]は、伝説の域を出ないようである。
これは、身もふたもない言い方をすれば−ペンシルベニア議員票取得の為の、暫定首府としてのフィラデルフィア提案も含め−なんともあからさまな商取引の申出である。首府が南に行くことは、債務引受がなされないことに比べれば何事でもない投機家筋(ジェファーソンの言うstock-jobbing herd)の賛成がものを言って、この取引は成立した。
すなわち、1790年7月16日に、ポトマック東支流河口とコノゴチェク川の間の地域
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