の地方公共団体への国庫補助の削減もあり、この傾向は一層激しいものとなった。このレイトの大幅引き上げが、中央政府の財政抑制政策に対する挑戦と受け止められたのである。[10]
これに加えて、1980年代初めの地方公共団体、特に大都市圏県とGLCが労働党極左派(ミリタント)によって支配されていたことも、中央政府と地方の対立を激化させることとなった。イギリス議会のあるウエストミンスターとはテムズ川を挟んで対岸になる、GLCの本拠地カウンティ・ホールには、大きな数字で「今週の失業者数」が張り出され、保守党の嫌悪する市民団体に対する補助の継続や、中央政府の政策とは全く逆向きの福祉拡大政策がとられたのである。
この代表例としてあげられるのが、1969年にGLCの管轄の下に置かれたロンドン地下鉄の料金をめぐる裁判である。GLCが「公平な料金」政策という名で地下鉄の低料金政策(30%値下げ)を行ったことに対して、実際に赤字を補填しなければならない特別区が裁判をおこし、結局敗訴したGLCは、一転して90%もの値上げをしなければならなくなったのであった。
このような対立を背景とし、そしてメトロポリタン・カウンティと大都市圏市、GLCと特別区の「二重行政の無駄」をもう一つの理由として、サッチャー保守党政権は、1986年、GLCおよび6大都市圏県を廃止し、地方自治の完全二層制は、わずか十数年で終わってしまったのである。(図表1を参照)
それでは、GLCおよび6大都市圏県の廃止後、それらの地方公共団体の行っていた業務・サービスはどのような組織によって担われているであろうか?公園、都市計画などいくつかの政策領域においては、かつてGLC・大都市圏県によって担われていた機能・権限が、基礎的地方公共団体である特別区・大都市圏市によって担われるようになった。また、廃棄物処理・土地利用・地域交通(旧6大都市圏県のみ)のように、特別区あるいは大都市圏市が共同処理機関をつくり、そこに委ねている場合もある。さらに、ロンドンの地域交通(地下鉄・バスなど)などのように再び中央政府の下に戻されたものもあり、この中には現在民営化の途上にあるものもある。
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