一ブに本部をおいていること、国連公用語でないドイツ語が歓迎されないことなどの理由もあって、最終的にはジュネーブの勝利に終わった(1994年)。
ウ 現在、ボンや連邦政府は、ロンドンにある欧州復興開発銀行(EBRD)本部のボンヘの移転を目論んでいる。人件費や物価の高いロンドンから、安いボンヘの移転により、経費削減が実現すると呼びかけている。
ボンヘの国際機関誘致はこれからますます熱を帯びると思われるが、連邦政府がこのように肩入れする背景には、連邦制、分権と分散の効果に対する伝統的な信頼があることも看過できないだろう。
〔補論〕暫定首都ボンの建設のための財政支援
現在、わが国で検討されている首都機能移転の問題は、ボンからベルリンヘの首都移転よりも、むしろ第二次世界大戦後のベルリンからボンヘの首都移転に条件が類似しているようにみえる。ベルリンも東京もそれぞれの国における人口最大都市であり、程度の差はあれ、両市とも集中・集権を象徴する都市であった(ある)という点で共通している。また、新首都ベルリンはかつて連邦首都であったところであり、首都関連の様々な公的施設が残っている。これらを考えあわせると、人口30万人弱のボンの方が移転候補地の条件に近い都市といえる。その意味で、大都市ベルリンから中都市ボンヘの首都移転の方が、わが国における首都機能移転を検討する上で参考になる側面があるともいえよう。
そこで以下においては、西ドイツの暫定首都ボンを建設するにあたり、連邦の財政支援の枠組みはどうなっていたかを簡単にみておくことにする。
連邦首都に決定したボンは、戦後復興や学校建設の促進のために州から一般的枠組みを越えて補助金を交付されたが、連邦首都としての都市建設に必要な経費の大部分は借款で賄わざるを得なかった。そのため、ボン市の一人当たり負債額は、1950年代初めからノルドライン・ヴェストファーレン州の都市の中で最高となった。ボン市の負債額は、1950年には1,460万マルク(1人当たり123マルク)だったが、1955年には5,160万マルク(同372マルク)と、五年間で約4倍に膨れ上がった。しかし、ボンは「暫定首都」と位置づけられていたため、1950〜60年代を通じて連邦は首都建設に必要な財政支援をほとんど行わなかった。
しかし、1970年7月15日、「連邦政府の所在地としての都市建設およびこれに