あるが、その意向がよく尊重されているものもある。またブレーメンの別の住民参加の例では、住民参加組織は法律上は何の根拠もないが、その住民組織の決議は100%尊重されている。このように見ると、決定権限とは法律的に見ればゼロか1かであり、かつ現実にどうあろうとも、規範上はあるとなれば済むが、社会学的に見ると決定権限とはそのようなものではなく、100%から0%までのスライディング・スケールをなしていると言うべきである。ドイツのここで出たような非常に強い決定権を持っている住民参加組織と、日本の何も法的裏付けのない住民参加組織とは、全く異種と見えながら、実はスライディング・スケール上の位置が違うだけということになる。そしてそのスケールの、例えば70%以上になると、例えば裁判所が国家権力の担い手だと認める、あるいは法律上の裏づけがあるということなのである。ドイツと日本の住民参加組織の決定権限の違いはそういうものなのであろう。少なくとも社会学的には、日本的な意味での「住民参加」とドイツの自治団体との間に質的な差異はないと考えた方が説明がしやすい。また、例えば神戸市のまちづくり条例では、住民組織が勧告や提案をできる、或いは届け出を求めることができるといった「やわらかい決定権」とでも言うべきものがあり、それは恐らくドイツの法的判断基準でも決定権限なしの部類に属するが、しかし法的には一つの権限ではある。また、先のブレーメンの別の住民参加組織のような法的に権限が無くとも事実上尊重されている例もある。このように考えていくと、スライディング・スケールにも2種類があり、法的にプロットしていけるスライディング・スケールと、法とは全く無関係に、事実の世界でどのぐらい住民集団が言ったことがそのまま実行されるかという事実のレベルでのスライディング・スケールとを考えていかなければならないのかもしれない。