りとりに至るまで、透明性の中で職務の責任を果たしていくことに、誇りを持つのが公務員の生き甲斐であると、当然のように言われている。 議会や行政主導の社会性を持つ日本においては、市民の思いや不満が欧米に比べ、より埋没しやすい社会性を持っているといえる。しかし1章で述べたとおり、環境教育においては、様々な国々が抱える問題、そしてそれと対比した中での日本の問題について、深く理解し、今どんな行動が必要であるかを評価・判断して、意欲的に問題に参画し、行動することが求められている。 これらを総合すると、日本の環境教育には、国際感覚の育成や、異文化への興味と探求など、地球市民としての素養を身につける教育活動を同時に行うことが、たいへん重要になってくるだろう。 (3) 行政システムの違い 行政システムについても、欧米各国と、日本とではたいへん大きな違いがある。たとえば3章で紹介したアメリカの法体系を見直してみると、まず、合衆国のレベルで、「教育は自治に属する」という基本理念が置かれている。市民が自由を権力から奪い取ったという観点に立てば、市民自らが、次世代の市民を責任を持って育てるのが当たり前で、国家権力が地域性や文化の違いに配慮せずに、均一な教育体系を市民に押しつけるという発想は当然のこととして否定されている。そのため、ウィスコンシン州法や行政資料においても、市民行動を起こせる人材の育成のために、行政は情報を整理して提供し補助的役割を演じることに徹している。1989年、州法299によってウィスコンシン大学スティーブンポイント校に環境教育センターを設置することを定め、同センターはAvoiding Infusion Confusion(統合の混乱を防ぐために)を出版した。この中では、既存のカリキュラムと環境教育プログラムを組み合わせ、いかに効率よく整理して環境教育を行いながら、しかも環境教育の目標段階でもある35の基本原則をどのプログラムによって達成していくかについても整理してある。 我々日本人がこのような欧米の進んだ教育システムを学ぶとき、「市民が主体となっている」ということを聞いて、「行政は放任していて無責任である」という感覚で見るのは大きな誤りである。以上述べてきたように、いかに市民や地域社会が主体者となって教育を進めていくかについて法で定め、行政側は日本では考えられないほどの予算とエネルギーと、専門家の力を借りて、補助教材や指針の作成を行っているのである。 (4) 社会のパートナーシップ 現在の日本の社会構造を市民の側からみると、図6−2に示すように、「市民」「行政」「議会」の3つの異なった立場からなる3極構造として捉えられる。しかし日本生態系保護協会(1992)によれば、本来あるべき姿として、NGO(非政府組織・民間公益団体)
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