今回の地震によって、色々な障害を持った人達はそれぞれ大変でした。障害の差によって皆それぞれ二一ズが違うわけです。例えば、視力障害の方々と皆さんとは違うわけです。それから、人工透析を受けている人達、糖尿病の患者さんは、命との戦いですから、薬とか医療機関をさがすのに大変でした。それから、知的障害・精神障害者の方々も大変でした。しかし、私を含めて一般の人々は、聴覚・言語に障害を持っている人達が、どんな問題を普段から持って、そのため社会参加がどのように障害されいるかということはわかっていない。他人事と考えているのです。これが現状の姿だろうと思います。
例えば、駅の掲示板にあります「電車が遅れて来ます」という表示は、おそらく皆さんにとっては、ものすごく大きな利点だろうと思うのですが、一般の人達は耳から入ってくる情報がありますからなんとなく見ています。しかし、これから耳の聞こえないお隼寄りも増えてきますからこれからどんどん文字放送の中で情報が伝わる世の中を作っていかなければならない。今回の震災の中で一番情報として欠けていたのは、どこに食事があるのか、どうすれば仮設住宅に申し込めるのか、そういう情報が非常に欠落していたわけで、一番大きな問題だろうと、思います。
このため、これからは普段のネットワークを作っていくこと、拠点を作っていくことが、極めて重要であると思います。それから、聞こえの問題が、はたしてどの程度社会に理解されているかということであります。私はよくわかりませんが、やはり、文字放送とか、要約筆記、手話通訳、補聴器などの問題に対して、積極的に消費者運動を起こしていく必要があるのではないか。消費者運動を起こしていかないと、世の中かわからないのではないか。その中で、難聴用の電話とか、公衆FAXとか、磁気ルーブとか、電光掲示というものを、どんどん増やしていく必要があるのではなかろうかと、私は思っております。
いずれにしましても、今回の震災を通じて、字幕放送の必要性が非常に重要視されたということを伺っております。それから、聴力障害を持つ人々の、人権や教育権の保証、豊かな文化を享受するための理解が少し前進したのではないか。それから、皆さんの活動が、国会の請願運動になり、これによって行政が少し前に向かって動き出したんじゃないかと、そのように私は評価させて頂いております。
2.障害の理念の変化とリハビリテーションについての考え方
さあ、ここで、地震を離れまして、障害を持った人達のリハビリテーションがどういうふうに最近受け止められ変化しているのかということを、少しお話申し上げたいと思います。ひとつは、障害の概念の変化がおこってまいりました。例えば足がなくなったということを、私どもは、これを機能障害と呼んでいます。それから、義足を付けて歩くことを能力障害と言っています。それから、その人が今度はそういった人達が街へ出て行く事を、援助していこう。このためにまちの構造わ変え、人の心をあたたかにかえ、社会的不利を取り除くことが大切で、結局はこのハンデキャップをいかに克服するかが最も大きな課題となっております。私共は、リハビリテーションという言葉を、どちらかというと、機能回復のためのというように考えておったのですが、そのような狭い訓練としてとの意味だけでなく、もっと広い人間としての義務として、権利を回復していこうとする意義我含まれています。一人の人間としての生き方、主体性、自立性の中で障害を持っていても人間として変わらない、人問としての尊厳を持って生きる権利は誰にもあるんだという気持ちを持つ事が、そして社会を変えていくことがリハビリテーションの概念として受け止められるようになりました。
それから、ノーマライゼーションという言葉が最近用いられています。障害を持った人達が、障害があるゆえに、どこか遠い山奥の中の施設に入って生活するのではなくて、できるだけ皆さんが住んでおられる近くで、生活していく。できるだけ普通の人達と同じように学校や友人と一緒に生活していこうという考え方、これをノーマライゼーションと呼んでおります。こういった、障害の