この時期におけるわが国の造船業界では、ニクソンショック後の昭和47年から48年にかけての狂乱ブームに建造された造船能力は1,900万総トンで、30年代中期の200万総トンに比べれば約9倍、43年の900万総トンに比べても2倍以上に増加したわけで、この能力は世界の造船能力の50%近くに達しており、船腹過剰による世界的な造船需要の激減は、わが国の造船業界に大きな影響を与え、中手以下の造船企業の倒産が相次いで発生した。 そのため政府は、今後の造船業の経営の安定化方策について、53年7月14日の海運造船合理化審議会の答申に基づいて、総合的な諸対策を実施することになり、この一環として、船舶の解撤事業を促進するため、53年12月7日、(財)船舶解撤事業促進協会が設立された。 同協会は船舶解撤事業を促進することによって、造船事業者の仕事量の確保を図るとともに外航海運における船腹過剰の解消を図ることを目的とするもので、事業期間は昭和53年度から平成3年度までであった。当初3年間で300万総トンの内外国船舶を解撤しようとする国の船舶解撤事業計画では、総額40億円の資金を必要としていたが、本会は20億円の補助金を交付して同協会の解撤事業に協力した。同協会は62年度までに、266隻445.5万総トンの船舶解撤を完了したが、その総額102億7,700万円のうち、本会は51億600万円を補助して事業の促進を支援した。 一方、この造船不況において、外航船の建造を主体とする総トン数5,000トン以上の船舶建造施設を有する船舶製造業、いわゆる特定船舶製造業においても、不況が長期的に継続することが見込まれたことから、特定不況産業安定臨時措置法の規定に基づいて特定不況産業に指定され、各事業者はこの規定に基づいて約340万CGRT(標準貨物換算トン数)の過剰設備の処理を、安定基本計画に基づいて行うこととなった。 そこで、設備の処理を円滑に行うため、53年12月12日、特定船舶製造業安定事業協会が設立された。 同協会は、「特定船舶製造業における計画的な設備の処理を促進するため、特定船舶製造業の用に供する設備および土地の買収等を行うことにより、特定船舶製造業における不況の克服と経営の安定を図ることを目的とする」もので、資本金は20億5,000万円であった。 同協会は、函館ドック函館造船所、楢崎造船室蘭工場、名村造船所大阪工場、佐野安船渠大阪工場、芸備造船工業本社工場、瀬戸内造船野賀工場、高知県造船本社工場、林兼造船長崎造船所、鹿児島ドック鉄工本社工場の9事業場で、年間建造能力49万CGRT、368億円の買収を行い、55年3月をもつて本業務を終了した。 しかしながら、60年後半から海運不況の長期化、円相場の急騰により船主経済は悪化し、造船業は一段と深刻な不況に陥った。 そこで政府は、海運造船合理化審議会の答申に基づいて、20%程度の設備の処理・集約化などによる産業体制の整備などの対策を実施することとした。このため同協会は30億円の増資が必要となり、62年、基金を50億5,000万円とした。本会は、(社)日本造船工業会と(社)日本中型造船工業会を通じ17億231万円を支出して、構造調整を支援した。 さらに平成元年にはこの構造調整の結果をふまえ、同協会は新たに高度船舶技術の開発を推進し、造船業の活性化を図るという国の施策に基づいた業務を実施することになり、名称を造船業基盤整備事業協会と改称するとともに、本会に20億円の出資要請をしてきた。本会はこの要請に応えて(財)日本造船振興財団を通じ20億円の支援をした。 |
日石丸の解撤(昭和60年)
どなう丸の解撤(昭和58年) |